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東京研修12.26

研修・研究会

2015年最後の研修に東京へ行ってきました。

 

参観したのは5年生の国語の授業。金子みすずの詩『犬』を教材とされました。教材の最後の1行を空欄として、その部分を考えるという授業でした。

 

参観していて思ったのは、授業で学ぶことを、最終的には子供たち自身が自力で掴み取っていく必要があるのだな、ということでした。

 

たとえば詩を読んで疑問をもてること。

 

「だりあ」とは何か。「クロ」とは何か。「話者」のイメージは? 

 

そして、作者が詩で工夫している表現はどんなことか。そして、その表現によって読者はどんな印象をもつのか。

 

このような事柄を、教師が問題として子供に提示するのが一般に考えられている授業です。しかし、それだけだと子供たちは国語を学ぶ意味を理解できないと思うのです。新しい教材に出会ったときに、なんとなく読むのではなく、授業で学習したことを生かして読んでいってほしい。つまり、今までより深い読みを自力でしていってほしいのです。

 

教師が提示した問題や課題をひたすらに解くだけでは、他の教材に出会ったときに、子供たちは学びへ動き出すことができません。

 

そんなことを考えていたら、協議会で、ある先生が「教師が問う前に、子供たちが自分の中で考えることが大事」とおっしゃっていました。また、「話者はどこにいるのか?という問題はどうか」とも述べており、すごくいい問題だなと感銘を受けました。話者の位置を尋ねることで、子供たちは思考を始めます。向山洋一氏の分析批評でもしばしば見られる問いです。「この詩を分析しなさい」と一言述べるだけで、子供たちが動き出す。1つの理想形ですね。

 

ただし、そこに至るまでには、やはり様々な詩を読む経験がないと無理です。本授業も子供たちがそこに向かう一里塚となったのでしょう。「対比」や「七五調」、「話者の想い」などを丁寧に押さえていったのはそのためなのだと思います。

 

私は授業をする際に、本時のねらいを考えます。しかし、本時だけで授業は完結しても、国語の学びは続きます。1年先、あるいはもっと先を見据えたときに、本時の学習の意味は何か。逆算して考えていく大切さを実感する授業でした。

 

冬休み中にも関わらず登校した子供たちと、年末のお忙しい中、授業を公開してくださった先生に、心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。