小学校教師クラメロンの日常

関西のみかんが有名な県に住んでいます/小学校教員 https://x.com/mohru1201?s=21

地味な実践が一番子供を伸ばす

夏休みに参加した某研究会では「問いづくり」を大事にされていらっしゃいました。

 

教師が問いを出すのではなく、教材をもとに子供が「問い」をつくって、みんなで解決すると。

 

そういう方法もあるかもしれないなと思いました。主体性は大事ですよね。

 

単元内自由進度学習、アクティブラーニング、単元を貫く言語活動、探究的な学びといった社会の耳目を集める活動はどれも、華々しく映ります。子供の成果物が目に見えるからでしょうか。「問いづくり」も「主体性」という美辞麗句のもと、某研修会で賞賛されていました。

 

ですが、そういった一見「派手」な活動よりも、子供を一番伸ばすのは「地味」な実践なんだよなと最近思います。

 

例えば

・朝の挨拶を大きな声で言う

・音読をする際は口を縦横にしっかりと開く(指が2本入るぐらい)

・掃除をさぼらない

・ごみが落ちていたら拾う

・教師が板書したことはしっかりとノートに写す

・視写スピードが速い

・国語以外の教科でも音読をしている

・教師が日々の授業記録を取っている

・教師が毎日クラスの子供全員と会話をしている

 

このような取り組みをしているかどうかです。

 

この夏休み、教育実践論文をいくつも読みましたが、どれもまあ、素晴らしい実践でした。しかしながら上記のような「地味」な実践例はありません。派手さがないので、実践しても差別化ができず、賞に選ばれにくいのです。「当たり前でしょ」と思われがちなのです。

 

しかし実際の現場では決して「当たり前」ではありません。

 

・音読をほとんどしていない学級はざら

・ノート指導も全くしていない

・「視写」という言葉を教師自身が知らない

・タブレットを使って、教師も子供も満足

・自由進度学習をしていて、テストの平均点は壊滅的

 

このような事例は枚挙に暇がありません。

 

もっと「地味」な実践を評価しましょう。

 

それは過去数十年間以上、日本で価値があるとされてきた実践です。

 

教育界は流行に踊らされがちですが、子供を伸ばすのは不易の部分です。社会や学校が、不易の部分を大事にするとは、不易の活動をしている教師にスポットライトを当てて評価することです。

 

特に初等教育においては、とりわけ大事なことだと思います。

クラスの子供に言えないけれど、ひそかに思っていること

①マスクをやめたほうがいい

 

筆頭。実はめちゃくちゃ強く思っています。

 

小学校の高学年くらいから特に女子で、マスクを手放せない子が増えます。この暑い毎日でも、マスクをひたすらつけ続ける子が結構いるのです。

 

自分を隠すためなのか。

 

完全な偏見かつ直感で、何のデータもありませんが、マスクをする子ほど不登校になるリスクが高いように思います。常に仮面をかぶっている感じ。息苦しいのでしょうか。

 

このようなことを言うと

 

「マスクを脱げるような声掛けや環境づくりが先!」

 

と返す方がいます。

 

まあ、それはそうなんですが、私としては

 

「とにかくマスクなしで生活すると、自信がだんだんともてるようになる」

 

と思います。

 

発想が逆なんですよね。とにかく一度外す。慣れてみる。すると性格も変わるだろうと。

 

若年層の自殺者数の増加は、マスクをしている子の増加と関係があるのでは?と思います。しかしマスクについて教室では絶対何も言えません。

 

②給食はしっかりと食べた方がいい

 

私が小学生の頃、

 

「一口は食べよう」

 

とよく言われました。

 

教師になりたての頃は、私もよく使ったフレーズです。

 

しかし今は、それすらやめています。食べれなければ・食べたくなければ食べなくていい。

 

なぜなら毎年のように、学校アンケートの自由記述欄に「給食が嫌で学校に行きたくない。」「無理やり食べさせらる。」と苦情が書いてあるからです。

 

これも偏見ですが、偏食の子はたいてい「大変な子」です。そしてたいていの場合、親も「大変」です。

 

こだわりがあるんですね。

 

そのこだわりに対し、最近の風潮は「他の人に迷惑をかけない限り、放っておこう」です。

 

それで誰も困りません。だから何も言いません。

 

ですが私は自分の子供には、結構しっかりと食べさせます。幼い頃からいろいろな味に触れておくことは大事だと思うからです。また、食事を通して、「自分が周りに合わせていく」ことを覚えてほしいからです。

 

これも絶対に教室では言えません。

 

③宿題は必ずやってきたほうがいい

 

宿題の提出については、結構指導している先生もまだいます。

 

ですがこれも、一歩間違えれば「宿題を出せと先生に言われたから学校を休む」となります(今の時代はハンガーストライキではなく、不登校ストライキ)。

 

たしかに小学校において、学力保障のためなら、宿題の価値などないに等しいと思います(そんなデータをジョン・ハッティが出していた)。

 

しかし私は自分の子供には必ず宿題はやって出させます。なぜなら宿題は「ノルマを期日内に出すこと」「毎日机に向かうこと」の訓練だからです。ある日突然、それらができるようになるわけがありません。嫌々でもする。それが習慣になる。だから高校生になったときにも自分から勉強ができるようになるし、サークルや部活、アルバイトでも仕事がこなせるようになるのです。

 

 

④筆箱は、四角いものがいい

 

小学校低学年くらいまでは、皆、筆箱というと四角いものを持ってきますが、中学年くらいからでしょうか。女子に多いのですが、ぬいぐるみのようなペンケースを持ってきます。

 

あれは絶対にやめたほうがいいです。

 

机の上の面積なんて、教科書やノートを置いたら残りはごくわずか(最近はさらにタブレット)。そこに、あの巨大なぬいぐるみを置いたらスペースはありません。ペンケースはたいてい、中に何が入っているか一目で分からないというデメリットがあります。小学生~中学生には不向きです。

 

ぬいぐるみはかわいいから、休み時間の話のきっかけづくりにはなりますね。利点はそのくらいでしょうか。

 

でもこれもなかなか言えません。なんでもそうですが、「学校では○○はダメ!」という強制はしにくい時代だからです。上記のようなデメリットを伝えても、持ってくる子は持ってきます。

 

以上です。他にも見つければ追記します。

 

ここに記載したことは全て内心で思っていることなので、口に出したことはありません。思っていても絶対に言えないことです。言ったらクレームの嵐です。

 

【追記】

⑤女子同士で手を繋ぐ行為はやめたほうがいい

 

高学年女子~よく見られる。

新井紀子教授講演感想~学力研全国フォーラムより

先日、大阪で開かれた「学力研・全国フォーラム2026」に参加してきました。

 

学力研とは、正式名称「学力の基礎をきたえどの子も伸ばす研究会」です。よく学校の印刷室にプリント集が置かれていますね。私もよく使います。この会は何といっても岸本裕史先生が有名。100ます計算を世に広められた先生です。

 

その会の全国大会が大阪で開かれ、しかも講演会として新井紀子先生をお招きする…とあって行ってきました。

 

新井紀子先生は『AI vs教科書が読めない子供たち』で一世を風靡した方です。最近は読解力を診断するリーディングスキルテストを開発したことでも知られます。

 

その講演会ですが、結論から言うと大変良かったです。そのエッセンスを紹介します。とはいえ、だいたいは書籍にも書かれていることなんですが。

 

・今、従来の日本式授業が成立しなくなってきた。

・その原因はテクノロジーや家庭の価値観の急激な変化である。

 例えば「オール電化なので火を見ない・紙幣や硬貨を使わない・沸騰を見たことがない・宿題をさせたがらない親」など

・だからこそ「環境に負けないレジリアントな教育の確立」が大事(新井先生は「こういう言葉を使わないと…」と嘆いていた)

・RST(リーディングスキルテスト)を開発したが、これは従来の国語教育の読解力とは異なる。だから最近ではシン・読解力と呼んでいる。

・いろいろな問題例があるが…

例:ポルトガル人追放問題:正答率 中学生で半分(2択なのに)

  素数問題:正答率 中学生で38% 教員でも55%

・RSTと全国学力学習状況調査」の相関係数はかなり高い。

・「RSTは低いのに、テストができる」→オーバーアチーバー。ドリルや暗記で点を取っているだけかもしれない。学年が上がり、読解力が不可欠になると学力が下がる可能性あり

・「RSTが高いのに、テストはできない」→アンダーアチーバー。家庭環境?教師との相性?他のことに興味関心がある?

・脳のワーキングメモリ(WM)にかかる負荷を認知負荷と言う。

・中でも課題外在性認知負荷(課題とは直接関係のない認知負荷)を下げたい。そのために何をすればいいのか?

・タブレットはむしろWMの負荷を大きくする。(例:突然シャットダウンした・文字がうまく打てない・変な画面が出た…などトラブル続き)

・学力テスト追跡調査の結果、2021年から2024年にかけて点数が下がった。その間に起こったことは「タブレットの導入」と「アクティブ・ラーニング」。新型コロナウイルスではない。(それなら2021年の段階で点数は下がっている)

・タブレットではなく、視写や音読、ページをさっと開くこと・計算の熟達など、トレーニングで負荷を下げることが大事

・なんとなく言葉を知っている子に、曖昧な言葉を使わせ、それを根拠にして授業をしてはいけない。教科書に書かれた正しい定義のもとで、授業を展開すること。

・指差し確認を3秒で全員が完了させたい。

・まずは型。すると型を破りたくなる。

・具体的な授業の仕方はRSノート初級編を参考に(ネット検索すると出てくる)。

(検索すると、やり方が書かれていた。黙読→音読→聴読→視写→校閲という流れ)

 

講演内容は以上。以下、感想。

・新井先生の本は何冊か読んでいたが、講演会は初めて。アンチ・タブレットなところが自分と似ていてとてもよかった。

・講演会自体はとてもよかったのだが、70分の予定時間を結構オーバー。これは主催者側がもっと長い尺を取っておくべきことだったと思う。新井先生目当ての人も多いだろうから、せめて講演会では90分は欲しい。質疑応答の時間もほしかった。

・新井先生の書籍を読んでも毎回思うのだが、RSTと全国学力学習状況調査の相関関係が高いのは分かるが、視写や音読などがRSTを高める理由がよくわからない。新井先生は「課題外在性負荷を下げるため」と仰るのだが、視写や音読などのトレーニングで、RSTのアミラーゼ構文や素数問題が解けるようになるとは直感的に理解しがたい。RSTとトレーニングのつながりを、もう少し丁寧に説明してほしいところ。

 

学力研についても感想。

・年々、参加者が少なくなってきているらしい。確かに登壇する先生たちの年齢層も高め。どの民間教育団体も高齢化が進んでいる印象を受ける。

・学力研の目指すところは、今の指導要領や文科省の流れとは一線を画す。だからこそ価値があるし、公立の先生には魅力的な団体ではないか。でもアピールが少し弱いイメージ。もっとSNSの発信や学校への案内をしたら?と思う。

・1日で4000円はやや高め。同日、文芸研が大阪(枚方市)で全国大会を開催していたが、文芸研は2日間で4000円だった。

・自分が参加した分科会の参加者は10名ほど。内容は割愛するが、もう少し工夫が必要かなと思った。分科会だけなら、次は参加しない見込み。あとは講演者次第。他の団体が呼ばないような方を呼んでほしい。

・学力研の良さ…がもっと伝わるといいなと思う。学力研基礎講座…的なものがあれば参加したい。1年生講座はオンラインでよくやっていて、そちらはかなり良かった。

・実践発表の岡本先生は、相当力がある方な印象。その良さをもっと分析する時間があればいいなと感じた。今回は新井先生の前座…のようになってしまっていてもったいなかった。

・学年に分かれての分科会だったが、教科ごとの分科会という手もあるのだろうなと思う。

・とはいえ、暑い中大きなトラブルなく運営してくださった関係者の皆様には深く感謝と敬意を申し上げたいです。大阪まで行って良かったなと思う研修会でした。

 

目指す子供像は、自らごみを拾う子

毎年4月、春休みにすることがあります。それが目指す子供像をノートに書くことです。夏休みになると、今の時点での学級の振り返りをします。目指す子供像にどれだけ近づいたのか検証し、場合によっては修正するためです。

 

目指す子供像は、毎年変わります。

 

受け持つ子供の実態、学年、そのときの自分の教育的考え、時代の流れ、学校の教育目標などに影響を受けるからです。

 

誰かが言っていたのか、自分で考え付いたのか分かりませんが、あるときふと思ったのです。

 

「目指す子供像は、自らごみを拾う子」だと。

 

そんなの当たり前?

 

いえいえいえいえ。

 

学級担任をしたことがある先生ならば、これがどれだけ難しいことか分かるはずです。

 

教室にごみが落ちていたとしましょう。紙きれでも、ティッシュでもなんでもいいです。

そのごみを拾う子が何人いるでしょうか?

 

多くの子は、気付いていても知らんぷり。平気でごみをまたぎます。

 

どの学校の教育目標も、研修テーマも実に高尚です。

深い学びの実装だったり、多様性の包摂であったり、高次の資質・能力であったり、自己調整学習であったり。それらは確かに価値あるフレーズですが、もっともっと、もっともっと、現実の子供の具体的な理想像を描きたい、その答えが「自らごみを拾う子」です。

 

本当に難しいです。このテーマは。

 

よく「逆上がり全員合格」や「長縄跳び連続❍回達成」を目指す担任がいます。これらも素敵なことだと思いますが、体格的に心理的に難しい子もいます。ですが、目の前に落ちているごみならば、誰でも拾うことができます。

 

つまり

 

「誰にでもできることを、誰もがする学級」

 

に育てたいのです。

 

以上のことを子供に語ったとしましょう。ごみの落ちていない学級は(ニューヨークの割れ窓理論を援用して)トラブルが少ないことを伝えてもいいでしょう。きっと心ある子供たちは、翌日からごみを拾うはずです。

 

しかしそれは全体の数割に過ぎません。また、教師が褒めて価値づけたとしても、教師が見ていないところで拾うかというと分かりません。さらに、褒めて一時できたとしても、半年たったときに学級の何割が拾っているかというと、ほとんど拾っていないのだと想像できます。

 

教師が率先して拾えばいいという考えもあります。

 

かつて先輩の先生が「ごみを自分から拾う子は、担任時代ついぞあらわれなかった。だから毎朝、私が教室を掃除していた。まあ、学級が荒れることはなかったけれどね」と仰っていました。

 

そうなんです。

 

教室がきれいであれば学級はそう簡単に荒れません。ですから教師が掃除すればよいのです。子供ですから、掃除をしても充分には行き届きません。最近は、掃除が毎日ない学校も多いと聞きますから、教師が朝、子供の机を拭いたり、床を掃いたりするのは、むしろ素晴らしいことです。

 

ですが、私が目指したいのは、自分たちの教室を自分たちできれいにし続けようとする集団です。いえ、別に教室に限ったことではありません。ごみが落ちていたら拾う。その当たり前of当たり前を、当たり前にできる子に育てたいのです。

 

目の前に落ちているごみに「気付く力」、腰をかがめて取ろうとする「行動力」。

 

どちらも大事な力です。ごみを拾う、日常の極めてささやかな行動を、自然に行える子ならば、集団ならば、いじめなど起きようもないでしょう。

 

そんなことを考えていたら、1学期は明日金曜日で終了でした。また2学期から頑張ります。

自分の子供には使わない言葉

自分の子供には決して使わなくても、学校で出会う子供には結構使う言葉があります。

 

それは

 

「無理しないでいいよ」

 

です。

 

・体調が悪そうで、体育をするかどうかどうしようか迷っているとき

・学校に来るのがしんどそうなとき

・宿題をするのが大変そうなとき

 

つまり何らかの困難に出合っている子供に対して使う言葉です。

 

この言葉は便利で、保護者への説明にも効果的です。

 

「無理しないでいいよと言ったんですけれど、本人が○○をすると言ったので…」

 

と言えます。

 

本人の思いを大事にし、本人への気遣いもばっちり。とても使える言葉です。

 

ですが自分の子供には決して使いません。

 

なぜか?

 

無理しないでいいよなんて、無責任極まりない言葉であり、甘えを助長させるだけの言葉だと思うからです。

 

自分の子供の養育の責任は私にあります。だからこそ無理をさせるときは無理をさせなければいけないと考えています。嫌なことがあったとき、大変なことがあったとき、逃げていいよと言う風潮がありますが、個人的には大反対です。逃げ癖がつくだけです。

 

ただ、学校においては話は別。無理をさせた結果、子供が潰れたり、不登校になったりしてしまっては大変ですからね。

 

つまり教員は責任をもてないので強く言えない。ですが自分の子供には強く言えるということです。

 

言い換えれば「厳しく言えるのは親だけ」となります。

 

今の時代、教師は厳しいことを言えません。たとえそれが事実であろうと、です。

 

例えば小学校低学年にして、毎回のプールを見学する子がいます。大きなけがもありませんが、親が許可している以上、教師としては何も言えません。その子は結局、10回のプール指導のうち、1回しか入らず、7月のプールは終了しそうです。(9月も実施するので、そこでどうか)

 

これでいいのかどうかは知りません。自分の子供が同様のことになったらどうするか。絶対に許しません。よほどの怪我や病気でない限り、学校のプールは皆出席させます。

 

もちろん、あまり厳しくしすぎると毒親になってしまいますので、そこの塩梅は考えます。ですが、厳しく言えるのは親だけですので、壁になることも必要かなと思うのです。

指導要領原理主義者

学習指導要領には法的拘束力があります。指導要領から逸脱した指導をすると処罰される恐れがあるというわけです。

 

指導要領は専門家や文科省の役人の方々が汗水たらして作ったものです。よく練られてあります。また、わりと漠然とした内容が書かれており、現場の裁量を大きく認めていることが伝わります。

 

しかし。

 

今年度、本校に赴任した校長先生が、指導要領を金科玉条のごとくあがめています。何かにつけて「指導要領では~」と言い、普段の授業を参観した後「この授業は指導要領のどこに位置づけているの~?」「指導要領では○○と書いてありますよね」とねちっこく授業者に尋ねています。

 

私はこのように、授業を参観した後、指導要領うんぬん持ち出してくる人を「指導要領原理主義者」と呼んでいます。

 

指導要領がいらないと言っているのではありません。大事です。しかし、指導要領に縛られ過ぎてもいけないでしょ、とも思います。まして、普段の授業で指導要領を読み込んで授業に臨んでいる人がどれだけいるか。

 

例えば、普段の運転の前後に、道路交通法を読み込んでいるのでしょうか。

 

いませんよね。

 

せいぜい教習所で習ったことをときどき思い返す程度です。

それでもおおむね問題なく運転できているのは、信号や交通標識のおかげです。

 

つまり指導要領は道路交通法のようなものであり、教科書や発問技術などが信号や交通標識のようなものです。普段の授業で見るべきは、教科書を上手に使っているか(信号を正しく守っているか)、発問は子供に十分に伝わっているか(交通標識の意味を理解しているか)などです。

 

指導要領原理主義者は、たいていの場合、管理職や行政職です。それしかよりどころがないのでしょう。逆に担任をずっとしている人は、指導要領のことを多く言いません。それよりも「子供の実態や反応」「教科書をいかに上手に使うか」などの方が、役立つし大事だと肌身に感じているからです。

 

あんなに分厚くて、文字情報ばかりの指導要領を、どれだけ普段、読み込むことができるのか。そんな余裕が現場にあるのか。まずその余裕を作ってから話は始まります。管理職や行政職に問いたいのは、その点です。

学級経営を教えない教育実習

教育実習生を受け持っています。3回目です。

 

どの実習生もよく頑張っていて、日本の未来は明るいなと思いました。が、今回言いたいことはそんなことではなく。

 

教育実習で何をするのかというと、主に授業です。私の学校の場合、3週間の実習期間で6回授業をします。授業の前に指導案を書くのが大変で、どの実習生も苦労していました。

 

3回、教育実習生を受け持っての感想が今回のブログの主張です。

 

「教育実習生が学ぶべきは授業ではなく学級経営」

 

教育実習生のうち、何割かは教員になります。教員になったときに何に一番困るのか。それは学級経営です。もちろん授業も大変です。1日の7割以上が授業時間なのですから、授業の仕方を学ぶのが大事なのは分かります。ですが、授業の仕方は大学でも教わりますし、教科書をなぞっていけばある程度できます。究極的に言えば、プリントでもNHK for schoolでも見せておけばよいのです。

 

問題は授業以外の対処です。例えば次のような状況のとき、どうすればよいのか。

 

・給食のおかわりの仕方

・掃除のシステム

・宿題の丸付け

・けんかの仲裁

・保護者からの電話

・アレルギー対応

 

…このあたりのことは、どの学校・どの学級でも当たり前のように毎日あります。ここに教員は心血を(注ぎたくないけれど)注いでいます。

 

以上の点をクリアした後、授業をさてどうするか…という問題があらわれます。授業が先にあると思いがちですが、実際は違います。学級経営が先です。

 

ここまでくると、そもそも学級経営とは何かという問題になります。学級経営とは、学級で起こる諸活動全てを指します。朝、子供が来る前から、下校し教師が帰るまでに行う全ての活動です。範囲が広すぎますね。日本の教師が疲弊するわけです。しかし現実問題、この学級経営を何とかしないと、毎日が地獄になります。

 

ですから教育実習生が学ぶべきは、授業ではないのです。

 

現場の教師がもがいている学級経営こそ、学ぶべきです。

 

具体的には

・宿題の丸付けをやってみる

・給食のおかわりを仕切ってみる

・休み時間の子供のトラブルを聞いて、解決する

・会議に参加してみる

などなど

 

授業なんて、氷山の一角に過ぎないと思い知らされるはずです。

 

でも、大学も現場の人たちも以上のこと、つまり教員が大変なのが授業ではなく学級経営ということは分かっているのかもしれません。分かっていて、教育実習生には見せない・教えないのかも。

 

それはなぜか。

 

大変だからです。

 

学級経営のしんどさを伝えたら、ますますなり手が減ってしまうから!

 

なるほどね。それならば授業だけ何回かして、いい思い出だけ残して大学に戻すのは理にかなっています。それが本当に実習生にとって良いのかは知りませんが。

研修は自分に引き寄せよう

教員研修の中に、授業研修があります。他人の授業を参観し、良かった点と改善点を互いに言い合う研修です。

 

どの学校でも年間数回ずつありますね。授業者になるかどうかはその年の状況によるでしょう。若手が授業者になることが多いようです。

 

さて、この研修。授業者になるととても多くの学びを得られます。授業準備でもたくさん勉強しますし、授業後にはいろいろと指導を受けるわけですから。

 

問題は参観者です。当たり前ですが、授業者は各学校、年間数人ですので、ほとんどの先生方は参観しかしません。それでいて、いろいろと言いたいことを言うのです。

 

このとき研修内容を自分に引き寄せられるかがポイントだなと思います。

 

例えば授業を見たときに、次のような感想をもったとしましょう。

 

・導入に時間がかかりすぎている。もっとすぐに本題に入った方がいい。

・授業者(教師)が話しすぎている。

・グループでの活動で、何もしていない子がいるな。教師の声かけが必要だ。

・時間をオーバーしている。

 

これらの感想を、授業後の研修会で発言する先生は大勢います。

 

しかし大事なことは、こういった感想を、自分の授業に引き寄せて考えてみることです。

 

すると意外と自分もできていないことに気付きます。そして、それこそが研修の意義だと思います。

 

・自分も導入に時間をかけているな。

・自分も話過ぎていて、子供は飽きているかも。

・グループ活動ではほったらかしにしていたな。

・今日の3時間目の授業はオーバーしてしまったな。

 

つまり、代表となった教師の授業を見ることを通して、自分の授業を振り返ることこそが研修なのです。授業者の批評が目的であってはなりません。

 

「人の振り見て我が振り直せ」です。

 

しかし、これは多くの人ができていません。

 

研修が好きで、いろいろ他人の授業を批判する人なのに、自分の授業はダメダメだったり、ひどい場合は学級崩壊をしたりする先生はたいてい、このパターンです。つまり自分に引き寄せた研修ができていないのです。

 

ではどうすればいいのか。

 

研修の最後に、司会者が尋ねればいいのです。

 

「今日の研修で出てきた意見を観点として、自分の授業を振り返ってみましょう。」

 

そうすれば

 

・子供への声掛けが足りなかったな。

・授業の目標が曖昧なことが多い。

・視覚的な支援がもっとあるといいだろう。

 

など、自分の授業に引き寄せて考えられます。

 

他人事になりがちな研修を、自分事に引き寄せられる研修にしたいものです。

授業は基本、追試でよい

教師の世界で言う「追試」とは、再試験のことではありません。

 

優れた授業をマネする意味で使います。

 

私は、普段の授業は基本、追試でよいと考えます。

 

今は情報があふれている時代です。一流の先生の優れた実践はいくらでも手に入ります。それを普段の授業で実施するのです。優れた実践をマネするのですから、子供の反応は良いでしょう。

 

私は普段の授業はそれでいいと思います。

 

多忙な中、ゼロベースで指導要領や教科書とにらめっこして授業を考える余裕など、ありません。

 

「巨人の肩に乗る」

という言葉があります。(ニュートンが広めたらしい)

 

優れた先人を土台にすることで、遠くまで見ることができるというたとえです。

 

授業実践も同じでしょう。

 

「追試」に批判する人もいます。主張はこうです。

 

「子供は一人一人違う。学級によっても違う。そもそも有名実践家は授業だけでなく日々の学級経営も違う。授業の発問や指示だけをマネしてもうまくいかない。」

 

その通りだと思います。ですから「追試」よりも「修正追試」が大事だと述べる方もいます。前者は、ただ発問や指示をマネするものですが、後者は自身の目の前の子供の実態に合わせて追試を修正するものです。

 

ですが、そのようなことは教師ならば当たり前に行うことです。

 

優れた実践を知ったとしても、次のように教師ならば誰でも思うはずです。

 

「うちのクラスではこの投げかけはうまくいきそうにない。だから○○という視覚的支援を取り入れよう」

 

多くの教師は自然と修正追試を行うというわけです。

 

ですから、追試をすればいいのです。

 

追試の良さは、子供の反応の違いが如実に分かることです。そうすれば

「今までの自分の授業は何だったのか」

「何が違うのか」

「どうすればいいのか」

と、これまた自然と思考が働きます。

 

そうすることで「先行実践がない」状態でも取り組むことができます。例えば総合的な学習の時間もそうですよね。

 

なんといっても子供はうれしいはずです。追試されるほど優れた実践なのですから、力もつきます。子供が満足する授業をするためには、教師がいちから考えるような「手作り信仰」を捨て、どこかの誰かがつくった「弁当授業」もよいではありませんか。

 

そんな提案でした。

 

 

赤坂真二先生講演会in静岡県三島市

上越教育大学の赤坂真二先生の講演会を聞いてきました。大学時代の友人が企画した研修会だったので、新幹線を使って行きました。

 

赤坂先生は学級経営で非常に有名な先生です。おそらく日本で一番有名ではないでしょうか。日本学級経営学会の代表でもいらっしゃいますからね。1~2時間の講演会は数あれど、5時間以上まとまって赤坂先生がお話される機会はそう多くないと思い、参加しました。

 

結論から申し上げますと

 

「大変、極めて、過去に類を見ない程よかった!」

 

対面というのがまた良くて、オンラインセミナーでは感じ取れない赤坂先生のテンポ感、巻き込み感が圧倒的でした。対面(リアル)はいいなあと思いましたね。

 

学びをいくつか記します。

 

☆教師の信念が全てのはじまり。

 

赤坂先生が今回、最も強調されていたことです。

 

多くの先生は授業のやり方を学んだり、子供への効果的な声掛けの方法を知りたがったりします。それらも大事なことですが、赤坂先生は、教師の信念が個人の指導につながり、それが学校全体へ浸透し、最終的に教師の潜在的な影響力となると仰っていました。

 

皆さんも経験がありますよね。

 

同じことを言っていても、

あの先生が言うと誰も聞かないのに

この先生が言うとみんな聞いている。

 

これはその先生の信念から生まれてきた「影響力」の差なのだと赤坂先生は指摘されます。

 

もちろん影響力には、年齢や体格、雰囲気もあります。しかし例えば

 

「子供はとにかく言うことを聞かせてなんぼ。まずは厳しく規律を!」

という先生と

 

「子供の言い分を聞いたり、心情に寄り添ったりした上で、しつけをしていったほうがいい」

と考える先生とでは

 

当然、指導内容も指導方法も変わります。醸し出す雰囲気も違います。

 

ですから教師としての信念を問い直しましょうよ、と赤坂先生は仰るわけです。

 

☆学級経営は子供に「成長を促す機能」と「癒し機能」の2つあり、相反する行為を両立させるものである

 

成長を促すとは「今のあなたではだめ」という機能のこと。

例えば箒の持ち方から、理科の実験器具の取り扱い方の指導に至るまで、学校現場では常に子供の不備不足を指摘しあらためさせます。

 

反対に癒す機能とは「今のあなたでいいよ」という機能。

 

どちらが大事か?

 

もちろん両方大事なわけですが、赤坂先生はいくつものエビデンスをもとに

 

「癒し機能をたっぷりすること。その上で成長を促す機能をはたらかせること」

 

と仰います。

 

令和の時代の難しさはここです。昭和~平成初期までは厳しさ一辺倒でもなんとかなりましたが、平成中期~から変化し始め、今では子供との関係性をいかに築き上げるかが大事となりました。

 

癒し機能を働かせる具体的方策として、赤坂先生は

 

1納得感のある方向付け

2自律の促進

3安心承認

4伴走のための対話

 

を提示されていらっしゃいました。

 

☆学級経営は1年間丁寧に丁寧にやらなければだめ。4月だけ頑張ればいいわけではない!

 

はい…。最近特にそう感じます。

 

☆縦糸横糸のバランスを支えるのは信頼

 

縦糸横糸理論(織物モデル)をご存知でしょうか?

 

学級経営で非常に有名な理論ですので、ぜひインターネットで検索してみてください。

 

この縦糸横糸理論について赤坂先生は、どちらも大事だが、そのベースにあるのは信頼だと言います。受容的関わりがしつけにつながり、秩序の整ったクラスになり、和やかな雰囲気となるそうです。

 

厳しさが先か、受容が先か。教師の世界でもよく話題になることですが、赤坂先生はエビデンスをもとに明確に教えてくださいました。

 

他にもいくつもいくつもの名言が飛び出しました。

 

例えば

・指示発問が授業なのではなく、子供とつながることが授業である

・学級経営ができて当たり前というのは昭和で終わっている

・授業を失敗して休む先生はいないが、子供や保護者との関係が悪くなって休職辞職する先生は山ほどいる

・あたたかさなき学級は、学級ではない。

 

名言の宝庫でした。

 

本当に本当によい学びとなりました。ありがとうございました。