毎年4月、春休みにすることがあります。それが目指す子供像をノートに書くことです。夏休みになると、今の時点での学級の振り返りをします。目指す子供像にどれだけ近づいたのか検証し、場合によっては修正するためです。
目指す子供像は、毎年変わります。
受け持つ子供の実態、学年、そのときの自分の教育的考え、時代の流れ、学校の教育目標などに影響を受けるからです。
誰かが言っていたのか、自分で考え付いたのか分かりませんが、あるときふと思ったのです。
「目指す子供像は、自らごみを拾う子」だと。
そんなの当たり前?
いえいえいえいえ。
学級担任をしたことがある先生ならば、これがどれだけ難しいことか分かるはずです。
教室にごみが落ちていたとしましょう。紙きれでも、ティッシュでもなんでもいいです。
そのごみを拾う子が何人いるでしょうか?
多くの子は、気付いていても知らんぷり。平気でごみをまたぎます。
どの学校の教育目標も、研修テーマも実に高尚です。
深い学びの実装だったり、多様性の包摂であったり、高次の資質・能力であったり、自己調整学習であったり。それらは確かに価値あるフレーズですが、もっともっと、もっともっと、現実の子供の具体的な理想像を描きたい、その答えが「自らごみを拾う子」です。
本当に難しいです。このテーマは。
よく「逆上がり全員合格」や「長縄跳び連続❍回達成」を目指す担任がいます。これらも素敵なことだと思いますが、体格的に心理的に難しい子もいます。ですが、目の前に落ちているごみならば、誰でも拾うことができます。
つまり
「誰にでもできることを、誰もがする学級」
に育てたいのです。
以上のことを子供に語ったとしましょう。ごみの落ちていない学級は(ニューヨークの割れ窓理論を援用して)トラブルが少ないことを伝えてもいいでしょう。きっと心ある子供たちは、翌日からごみを拾うはずです。
しかしそれは全体の数割に過ぎません。また、教師が褒めて価値づけたとしても、教師が見ていないところで拾うかというと分かりません。さらに、褒めて一時できたとしても、半年たったときに学級の何割が拾っているかというと、ほとんど拾っていないのだと想像できます。
教師が率先して拾えばいいという考えもあります。
かつて先輩の先生が「ごみを自分から拾う子は、担任時代ついぞあらわれなかった。だから毎朝、私が教室を掃除していた。まあ、学級が荒れることはなかったけれどね」と仰っていました。
そうなんです。
教室がきれいであれば学級はそう簡単に荒れません。ですから教師が掃除すればよいのです。子供ですから、掃除をしても充分には行き届きません。最近は、掃除が毎日ない学校も多いと聞きますから、教師が朝、子供の机を拭いたり、床を掃いたりするのは、むしろ素晴らしいことです。
ですが、私が目指したいのは、自分たちの教室を自分たちできれいにし続けようとする集団です。いえ、別に教室に限ったことではありません。ごみが落ちていたら拾う。その当たり前of当たり前を、当たり前にできる子に育てたいのです。
目の前に落ちているごみに「気付く力」、腰をかがめて取ろうとする「行動力」。
どちらも大事な力です。ごみを拾う、日常の極めてささやかな行動を、自然に行える子ならば、集団ならば、いじめなど起きようもないでしょう。
そんなことを考えていたら、1学期は明日金曜日で終了でした。また2学期から頑張ります。