小学校教師クラメロンの日常

関西のみかんが有名な県に住んでいます/小学校教員 https://x.com/mohru1201?s=21

集団の力で子供は伸びる…けど

子育てをして、初めて知ったことがあります。親と子の1対1の関係だと意外と伸ばせないということです。

 

例えば公園で雲梯をしたとします。やり方を教えたり、体を支えたりはできます。しかし我が子はすぐに

「もうやらない」

と言い出します。

 

ですが面白いことに、もう一人の兄弟が雲梯を始めると、またやりだすのです。

 

子供でも、誰かがしていると気になるもの。

 

2人であっても兄弟という集団の力がはたらいたことで、雲梯に興味を抱いたわけです。

 

学校にいると、同じことがよくあります。

 

子供たちは思います。

 

A君のように計算を素早く解けるようになりたい!

Bさんのように大きな声で発表ができるようになりたい!

 

教師も言います。

Cさんのように姿勢よくしましょう。

Dさんのようにほうきを正しく使いましょう。

 

つまり集団の力とは、モデリングです。真似をすることです。

 

人は必ず自分と他者を比べます。集団の力は、自然に子供たちに自分と他人を比べさせるはたらきをもちます。

 

このはたらきを生かして、学級はつくられます。

 

特に通常学級では、です。

 

通常学級で「全員立ちましょう!」と言われて、一人だけ座っていたら目立ちます。

 

ですが特別支援学級は少人数ですので、意外と集団の力がはたらきにくく、座っていても意外と目立ちません。(本人の特性もありますが)みんながしているから、自分もしようとはなりにくい場です。

 

この集団の力を上手に使いながら、教師は学級づくりをしていきます。

 

「Aさんのように動いてごらん」

と声掛けをしたり

 

「Bさんはノートに10行も書けているね!」

と褒めて、みんなにはっぱをかけたりします。

 

集団の力を巧みに使える先生は、学級経営が上手です。

 

ですが、当然、集団の力には副作用があります。

 

同調圧力になりかねないのです。

 

「みんなしているよ」は、個々の子供によくも悪くも影響を与えるからです。

 

これはよくわかりますよね。

 

「みんなは上手に跳び箱ができていてすごいな。」

の後、

「よし!自分ももっと頑張ろう!!!」

となる子ばかりではないのが現実です。

 

「跳び箱嫌だから、跳び箱の授業がある日は学校を休もう」

となる子が増えている時代です。

 

集団の力の副作用を意識していないと、学級担任を務めにくい時代とも言えます。

 

巧みな先生は集団の力を生かしながらも、個々の配慮を忘れません。

 

跳び箱ならば、全員が一律同じ段数を跳べる必要はなく、いろいろな段数の跳び箱を用意したり、柔らかい素材でできた跳び箱を使って指導したりします。また、段数の多い少ないではなく、着手から空中姿勢の様子・着地の仕方などを評価する旨を子供に伝えることもします。

 

つまり巧みな先生であればあるほど、

集団の力を利用しながらも、その怖さを自覚して学級を経営しているのです。

 

先生方のタイプはこの点で結構分かれます。

 

1 集団の力を上手に利用し、個々への配慮を忘れない(優秀な先生)

2 集団の力を上手に利用しているが、個々への配慮は不十分(圧の強い先生)

→不登校児童生徒を発生させやすい

3 集団の力はいまいち利用できないが、個々への配慮は十分(優しいけど…な先生)

→学級崩壊させることもある。

4 集団の力も利用できないし、個々への配慮も不十分(たまーにいる)

→管理職が困るタイプ

 

このテーマは考えていくとおもしろいので、またどこかで続きを書くかもしれません。とりあえず今回はこのあたりで。

 

 

 

 

 

男性育休について自分の意見(2026年段階)

職場の男性教諭(30代)が先月から育休を取り始めました。3月末まで取るそうです。

 

男性育休を取る人が最近、急激に増えてきました。このような突然の変化には否定的な考えをもつ人もいます。ある日、放課後の職員室で次の会話が聞こえてきました。

 

「女性なら分かるけれど、男性で育休ってどうなの?」

「本当、大きな声では言えないけど、ねえ?」

「しかも今の学校の状況分かっているの?」

「そうそう、欠員がいて、教頭先生が担任をやっているというのに」

「年度の途中で育休って、女性ならともかく男性もするなら、残る人たちの給料を上げてほしいぐらい」

 

等々。まだまだ話は続いていました。

 

私は育休を取ったことがありません。しかしもしも次の子(4人目)が生まれたら、育休を取ってもいいかなと考えています。

 

一方で上記のような職員室の会話の気持ちも分かります。

 

本校の場合は欠員が3名。火の車です。担任が年度はじめから変わった学級が2つもあります。(学校全体で23学級)

 

その中で、今の自分の意見を備忘録として記しておくのもいいかなと考えました。時代と共に意見は移り変わるものです。2026年の自分はどう考えていたか書いてみます。

 

結論から言うと、

 

男性育休は「条件的にあり」と考えます。

 

今の学校現場の人手不足っぷりは、他の業界同様ひどいものです。教育の世界は機械に代替できない箇所が多く、人手不足がもろに他の人への業務負担につながります。

 

そう考えると、手放しに「権利だから男性育休賛成!」とは言えません。

 

一方、男性も育児に主体的に参加すべきとの意見にも納得します。

 

ですので条件つきの賛成となります。

 

その条件とは何か。

 

・年度はじめから取得する育休ならば、問題なし!

・年度途中から取得する育休は、

➀第一子・第二子の場合は1~3か月ならばOK

②第三子~の場合はいくらとってもOK

 

まず「年度はじめから取得する育休」の利点は何か。それは代わりの先生が学校に確実に来ることです。教育委員会から優先的にあてがわれるわけです。(私の所属する市の場合)

 

反対に、年度途中から育休を取るとなると、代わりの先生は学校で見つけなければなりません。これは極めてきついのです。まず、見つかりません。

 

ですから「年度はじめから取得する育休」は学校に(つまり職員にも子供にも保護者にも)迷惑がかからないので、問題なしです。

 

ただ、よその学校にとっては別問題です。男性育休により、講師が育休取得者の学校に行ってしまうわけです。何らかの事情で欠員の発生した学校は講師を見つけられない恐れが高まります。ともあれ、当該学校においては年度はじめから育休を取得する分には問題ないのです。

 

しかし子供の出生は年度途中にも起こります。

 

その際は、子供が第何子かによると思います。

 

第1子の場合は、里帰り出産をする場合が多く、祖父母からの支援を受けやすい利点があります。もちろん祖父母が遠方に住んでいて、手助けをしてもらえないこともありますが。周りを見ていると、第1子の場合は大人一人(母親)で子供一人を見るわけですから何とかなるケースが多いように感じます。我が家もそうでした。よって男性育休も1~3か月程度にしてもらえると、学校としては助かるのではないかと考えます。

 

第2子の場合は、里帰り出産をしないケースが多くみられます。上の子がいるからです。問題は上の子の幼稚園保育園の送迎です。さらに下の子の面倒ならば母親が見ることができても、上の子をどうするかという問題が生じます。少なくとも産後1か月は母親の絶対的安静が求められるわけですから、+αをみつもって、2~3か月は男性も育休を取るとよいと思います。しかしその後もずっと男性が育休を取るべきかと言われると、そこまででもないかなというのが、私も育ててみての感想です。

 

さて、第三子の場合はどうか。

 

これは母親だけではかなりきついです。産褥期の後でも幼稚園の送迎の他、突発的な通院対応、食事の準備などの育児・家事の量が膨大になります。

 

私はかつて、子供が2人になったら大変さは単純に2倍になり、3人になったら3倍になると思っていました。しかし違いました。子供が2人になったら大変さは3〜4倍、3人になったら更にその3〜4倍なのだとわかりました。

 

仕事でもそうですよね。一つ一つの仕事の大変さはそこまででなくても、二つ三つ重なると途端に大変になる。マルチタスクの能力が必要になるからです。

 

しかも子供が病弱だったり障害があったりした場合の大変さは想像しがたいものがあります。

 

ですから第三子の場合は、年度途中であっても男性育休を長い間取得するのはありと考えます。記事冒頭の男性教員はこのパターンです。

 

一方で、これはやめた方がいいよねということもあります。

 

それは育休中に旅行に行ったことを吹聴することです。行くことはいいと思います。平日の方がどこも空いていますからね。ですが、わざわざ言う必要はないでしょう。

 

かつて「夫も育休をとってくれたから、平日にディズニーに行ってこれた!」と嬉しそうに語る教員がいましたが、もやっとしました。

 

育休は権利であれど、その際に支払われる補助金は税金から出ているのですから。

 

以上、男性育休についての今の意見でした。数年したら変わるかもしれません。

孤立しがちな子は何とかなるのか?

休み時間にぽつんと一人でいる子、いませんか?

 

ときどきいますよね。

 

かくいう私の子供がそのタイプかもしれないなと思っています。

 

今5歳の息子に先日、幼稚園での様子を尋ねると、次のように答えました。

 

「今日は一人で遊んだ。(仲の良い)○○君が、別の子と遊んでいたから。」

 

私としたら

 

「だったら自分も入れてって言えばいいじゃないか」

 

となるのですが、それはできないようです。

 

小学校でも孤立しがちな子あるあるですよね。相手が何かを言ってきたら参加することはできるが、自分から動くことはできない。困ったものだと親ながら思います。

 

その話を妻としていると、「私も子供の頃はそうだったから、何とかなるんじゃない?」とのこと。

 

「何とかなる」に違和感を覚えたので、少し考えてみました。それが本記事の結論です。

 

孤立しがちな子でも、何とかなるタイプと何ともならないタイプがいるだろうな、と。

 

かつて受け持った子供の中でも孤立しがちな子はいくらでもいました。その中で、学年が進むにつれて何とかなった子と不登校や行き渋りなどになってしまった子には違いがあるように思います。

 

上記のタイプを分ける条件は次の2つだと考えました。

 

①自分の世界をしっかりともっているかどうか

 

②必要に迫られたとき、コミュニケーションをとることができるかどうか

 

1つ目、自分の世界をしっかりともっているかどうか。

 

言い換えれば「自分の好きなものはこれだ!」と言えるかどうかです。休み時間に孤立していても、「自分は折り紙が好きで、折り紙をしたいから別にいい」「図書室で本を借りて読むのが好きだから別にいい」など自分の世界があり、好きなことがあり、本人が困っていないこと。これが条件の1つ目です。

 

休み時間だから友達と過ごさなければいけないルールなんてありません。好きなように過ごせばいいのです。

 

問題は、一人でいることを本人が気にしているかどうかです。本当は友達と遊びたいのだけれど…の場合は、教師が何らかの手立てを打った方がいいと思いますね。(一緒に遊ぶなど)

そうでなければ、余計なお世話でしょう。

 

2つ目、必要に迫られたとき、コミュニケーションをとることができるかどうか。

 

例えば授業中に班で話し合いをするとき。黙っている子と意見を言える子に分かれます。もちろん学習内容を理解しているかどうかの問題もありますが、「それは誰でも言えるでしょう」と思えるような内容でも黙っている子もいます。そのときに黙っている子には、周りの子がかなりサポートする必要があります。でもそれは、コミュニケーションの不足分を周りが補っているわけで、言い換えれば会話のコストを周りに支払わせているだけです。そんな子と友達になろうとするでしょうか。やはり厳しいですよね。

 

しかしながら、休み時間は一人でいるけれど、授業中は普通に友達と会話(対話)することができる子もいます。そういう子は結構一目置かれたりします。「あいつはよくわからないやつだけれど、言うべきことは言うやつだ…」と子供ながらに互いに感じ取っています。意外と。

 

以上の2点ができる子は、たとえ休み時間に孤立しがちでも近い将来、自分の居場所を見つけて楽しめます。そもそも今の自分に困っていないのであれば、元から居場所は存在していると言ってもいいのかもしれません。

 

というわけで、孤立しがちな子でもなんとかなるのはこの2タイプだろうという話でした。

 

中堅になったら変化球を覚えよう

野中信行先生がかつて、年齢を重ねていったら「変化球」で勝負ができるようにならなければならないと仰っていました。

 

若いうちは、情熱だけで勝負ができます。若くて体力があるからです。言ってみれば、ストレート(直球)ばかりで勝負する投手です。

 

しかし20代を過ぎ、教職10年を過ぎた頃から「変化球」も使っていかないといけなくなります。

 

若さの盛りを過ぎ、体力に陰りが見え始め、初期の頃にあったほどの熱さがなくなるからです。また、30代になると分掌業務が重くなって、自分の学級以外にも意識を向けなければならなくなります。家庭をもち、子供が生まれると、勤務時間にも制限が掛かります。休み時間にドッジボールを子供とする余裕がなくなります。

 

その中で、どう子供を惹きつけたり、授業をしていったりすればいいのか。

 

ベテランなりの手練手管が必要になってくるわけです。

 

野球で例えるなら変化球です。

 

例えば私の場合は、若い頃から溜めてきた学級レクがあります。

 

ちょっとした隙間時間に、学級レクをするのです。するととても子供たちは喜びます。学級レクは教師と子供をつないだり(縦糸を張る)、子供と子供をつないだり(横糸を張る)ことに極めて有効です。

 

別の先生は、クラス会議をよくしています。学級を自治的集団にすることに長けていらっしゃいます。

 

また、ある先生はLDの子への支援を通常学級で行うことに熱心に取り組んでいらっしゃいます。

 

つまり「変化球」とは、その先生なりの「強み」です。その「強み」は、直接的に学級を安定させたり子供の学力を上げたりすることに役立つかどうかは分かりませんが、確実に「その人のカラー」を出せます。何より、先生の「強み」ですから、若い頃の熱さがなくてもなんとかなるものであり、ベテランだからこそ出せる味わいでもあります。

 

「変化球」を何にするかはその人の得意や好みによって変わります。できれば2~3種類あると良いでしょう。プロの投手も同じですよね。1つだけでは心もとないので。

 

 

教職10年目を過ぎたら「変化球」を覚え、駆使していきましょう。そんなお話でした。

 

公的研修会はなぜつまらないのか?

自ら教員向けの研修会を開催するようになって痛感するのが、公的研修会のつまらなさです。

 

たいていの場合、県や市の教育委員会が主催するものです。担当の分掌についた教員が全員強制的に参加となるケースがほとんどですが、たまに希望研修もあります。

 

どちらもひどいですね。途中で寝てしまう人がいるのも納得。

 

なぜでしょうか。理由を考えてみました。

 

① 講師の選定が下手

 

研修会は講師の話で決まります。もちろんグループワーク中心の研修会もありますが、講師(指導主事の場合もあり)の講話がゼロの研修会はほぼないでしょう。

 

その講師をどうやって選んでいるのか。

 

本県・本市の場合、文科省や国立教育政策研究所の役人か、近くの大学の先生が来て講話をされるケースが多いです。ですが、その選定をどうやっているのかが不透明です。話を聞きながら「なぜこの人を呼んだの…?」となるケースがほとんど。

 

きっと国に「〇月〇日、○○というテーマで講演をしてほしい」と文書でお願いをしたり、例年講演をしてもらってるからという理由で大学の先生を呼んだりしているのでしょう。

 

ありえないと思います。

 

研修会は、呼ぶ人(教育委員会)が講師の話をどこかで事前に聞いていて、面白い!と思った方を呼ぶべきです。役人も大学教授も研究や分析は得意でも、話は下手なことなど、ざらですからね。

 

この観点から言うと、ときどき近隣学校の教員を講師として迎えるケースがありますが、たいていつまらないのも納得がいきます。授業や学級経営などの実践がいくら優れていても、イコール講話が上手…とはならないのです。現場で優れた実践をすることと、研修会で話をすることとは、少し別の力が必要なように思います。だからこそ講師を呼ぶ人は、自らその方の話を別の研修会などで事前に聞いたうえで選定すべきなのです。

 

② 司会が無駄な話をしすぎ

 

公的研修会ではたいてい

 

・開会の辞(なぜか互いに礼をする)

・講師紹介

・お礼の言葉

・閉会の辞

 

があります。

 

この中で「講師紹介」と「お礼の言葉」は確実にいりません。「講師紹介」なんて紙に記載しておけばよろしい。

 

公的研修会だと、意外と長い時間をかけて指導主事が語るのが、この2点です。しかし本当に無駄です。参加者はそんなことよりも講師の話を聞きたいのです。このような会を企画する人は、きっと授業も下手なんだろうな~と思います。余計な前置きばかり授業の冒頭に行うことで、子供たちがしらけているのが分からないのでしょう。

 

以前、こちらのブログでも書きました。先日の公的研修会で講師の話の後に指導主事が「今日学んだことが6つあります。1つめは…」といきなり語りだしたことがあります。本当にげんなりしました。学んだことはチラシの裏に書いておいてほしいものです。

 

③ 指導主事の業務が忙しくて、回っていない

 

教育委員会側の事情もありますね。

 

指導主事の仕事は、研修会の企画だけでは当然ありません。それ以外にも無数に仕事があります。研修会で誰を講師として呼ぶかなど、たいして大切なことではないのでしょう。ですから、より話の上手な人を探す努力もせず、前年踏襲で済ましてしまうのです。

 

気持ちは分かりますが、参加をする先生方にも仕事はあります。場合によっては学級を自習にして参加する方もいるのです。その方々に報いるためにも、きちんとした講師招聘をしていただきたいものです。

 

指導主事御自身が講師をされるケースも、ままあります。しかし指導主事の他の業務が忙しいせいか、話の内容がイマイチなことが多いように思います。端的に言えば、指導主事御自身が勉強不足のことも、しばしば。あるいは、文科省の言っていることの垂れ流しであることも。もう少し業務が減ったらいいのではないかな、と感じますね。

 

④ 無駄なグループワークをしがち

 

公的研修会は、隙あれば「実践共有」や「情報交換」などと称してグループワークをさせがちです。

 

アウトプットは大切ですが、ただのおしゃべりならば学校内でできます。それは「対話的な学び」ではありません。

 

グループワークの時間を設けると、なんとなく参加者の満足度が上がるのでしょうが、功少なしです。よほど目的をはっきりとさせたグループワークでない限り、やめてほしいものです。その日のプログラムに「グループワーク」があったら、即刻帰りたくなります。

 

⑤ 実践発表・授業の質が低い

 

本市では年に2回ほど、教科ごとに研修会があります。市内で選ばれた(持ち回り)授業公開もしくは実践発表をするという研修会です。これの授業と実践発表の質が低いのです。

 

仕方のないことは分かります。例えば国語が専門でないのに、たまたまその学年配属で、たまたま自分に国語の発表の白羽の矢が当たってしまった(多くの場合、前年度の段階で指定されている)だけなのですから。仕方がないので、関連書籍をいくつも読み、突貫工事で実践をし、発表や授業をするのです。かわいそうに…。

 

発表者・授業公開者は勉強して腕を上げられるので、大変ですが価値はあるのでしょう。が、付き合わされる身になってほしいものです。そういう活動は、校内研修でやっていただきたい。市ぐるみでやることではありません。

 

以上です。

 

結論は「公的研修会はたいていつまらないのだから、働き方改革の錦の御旗のもと、ばっさりと切ればいい」のです。しかし問題は、公的研修会がいかにつまらないか(民間研修会がいかに面白いか)が分かっていない人が大勢いることです。ですから、まず改善すべきは、教育委員会の方々がいろいろな研修会に足繫く通うことですね。でないと、参加者の時間を奪うだけです。

地味な実践が一番子供を伸ばす

夏休みに参加した某研究会では「問いづくり」を大事にされていらっしゃいました。

 

教師が問いを出すのではなく、教材をもとに子供が「問い」をつくって、みんなで解決すると。

 

そういう方法もあるかもしれないなと思いました。主体性は大事ですよね。

 

単元内自由進度学習、アクティブラーニング、単元を貫く言語活動、探究的な学びといった社会の耳目を集める活動はどれも、華々しく映ります。子供の成果物が目に見えるからでしょうか。「問いづくり」も「主体性」という美辞麗句のもと、某研修会で賞賛されていました。

 

ですが、そういった一見「派手」な活動よりも、子供を一番伸ばすのは「地味」な実践なんだよなと最近思います。

 

例えば

・朝の挨拶を大きな声で言う

・音読をする際は口を縦横にしっかりと開く(指が2本入るぐらい)

・掃除をさぼらない

・ごみが落ちていたら拾う

・教師が板書したことはしっかりとノートに写す

・視写スピードが速い

・国語以外の教科でも音読をしている

・教師が日々の授業記録を取っている

・教師が毎日クラスの子供全員と会話をしている

 

このような取り組みをしているかどうかです。

 

この夏休み、教育実践論文をいくつも読みましたが、どれもまあ、素晴らしい実践でした。しかしながら上記のような「地味」な実践例はありません。派手さがないので、実践しても差別化ができず、賞に選ばれにくいのです。「当たり前でしょ」と思われがちなのです。

 

しかし実際の現場では決して「当たり前」ではありません。

 

・音読をほとんどしていない学級はざら

・ノート指導も全くしていない

・「視写」という言葉を教師自身が知らない

・タブレットを使って、教師も子供も満足

・自由進度学習をしていて、テストの平均点は壊滅的

 

このような事例は枚挙に暇がありません。

 

もっと「地味」な実践を評価しましょう。

 

それは過去数十年間以上、日本で価値があるとされてきた実践です。

 

教育界は流行に踊らされがちですが、子供を伸ばすのは不易の部分です。社会や学校が、不易の部分を大事にするとは、不易の活動をしている教師にスポットライトを当てて評価することです。

 

特に初等教育においては、とりわけ大事なことだと思います。

クラスの子供に言えないけれど、ひそかに思っていること

①マスクをやめたほうがいい

 

筆頭。実はめちゃくちゃ強く思っています。

 

小学校の高学年くらいから特に女子で、マスクを手放せない子が増えます。この暑い毎日でも、マスクをひたすらつけ続ける子が結構いるのです。

 

自分を隠すためなのか。

 

完全な偏見かつ直感で、何のデータもありませんが、マスクをする子ほど不登校になるリスクが高いように思います。常に仮面をかぶっている感じ。息苦しいのでしょうか。

 

このようなことを言うと

 

「マスクを脱げるような声掛けや環境づくりが先!」

 

と返す方がいます。

 

まあ、それはそうなんですが、私としては

 

「とにかくマスクなしで生活すると、自信がだんだんともてるようになる」

 

と思います。

 

発想が逆なんですよね。とにかく一度外す。慣れてみる。すると性格も変わるだろうと。

 

若年層の自殺者数の増加は、マスクをしている子の増加と関係があるのでは?と思います。しかしマスクについて教室では絶対何も言えません。

 

②給食はしっかりと食べた方がいい

 

私が小学生の頃、

 

「一口は食べよう」

 

とよく言われました。

 

教師になりたての頃は、私もよく使ったフレーズです。

 

しかし今は、それすらやめています。食べれなければ・食べたくなければ食べなくていい。

 

なぜなら毎年のように、学校アンケートの自由記述欄に「給食が嫌で学校に行きたくない。」「無理やり食べさせらる。」と苦情が書いてあるからです。

 

これも偏見ですが、偏食の子はたいてい「大変な子」です。そしてたいていの場合、親も「大変」です。

 

こだわりがあるんですね。

 

そのこだわりに対し、最近の風潮は「他の人に迷惑をかけない限り、放っておこう」です。

 

それで誰も困りません。だから何も言いません。

 

ですが私は自分の子供には、結構しっかりと食べさせます。幼い頃からいろいろな味に触れておくことは大事だと思うからです。また、食事を通して、「自分が周りに合わせていく」ことを覚えてほしいからです。

 

これも絶対に教室では言えません。

 

③宿題は必ずやってきたほうがいい

 

宿題の提出については、結構指導している先生もまだいます。

 

ですがこれも、一歩間違えれば「宿題を出せと先生に言われたから学校を休む」となります(今の時代はハンガーストライキではなく、不登校ストライキ)。

 

たしかに小学校において、学力保障のためなら、宿題の価値などないに等しいと思います(そんなデータをジョン・ハッティが出していた)。

 

しかし私は自分の子供には必ず宿題はやって出させます。なぜなら宿題は「ノルマを期日内に出すこと」「毎日机に向かうこと」の訓練だからです。ある日突然、それらができるようになるわけがありません。嫌々でもする。それが習慣になる。だから高校生になったときにも自分から勉強ができるようになるし、サークルや部活、アルバイトでも仕事がこなせるようになるのです。

 

 

④筆箱は、四角いものがいい

 

小学校低学年くらいまでは、皆、筆箱というと四角いものを持ってきますが、中学年くらいからでしょうか。女子に多いのですが、ぬいぐるみのようなペンケースを持ってきます。

 

あれは絶対にやめたほうがいいです。

 

机の上の面積なんて、教科書やノートを置いたら残りはごくわずか(最近はさらにタブレット)。そこに、あの巨大なぬいぐるみを置いたらスペースはありません。ペンケースはたいてい、中に何が入っているか一目で分からないというデメリットがあります。小学生~中学生には不向きです。

 

ぬいぐるみはかわいいから、休み時間の話のきっかけづくりにはなりますね。利点はそのくらいでしょうか。

 

でもこれもなかなか言えません。なんでもそうですが、「学校では○○はダメ!」という強制はしにくい時代だからです。上記のようなデメリットを伝えても、持ってくる子は持ってきます。

 

以上です。他にも見つければ追記します。

 

ここに記載したことは全て内心で思っていることなので、口に出したことはありません。思っていても絶対に言えないことです。言ったらクレームの嵐です。

 

【追記】

⑤女子同士で手を繋ぐ行為はやめたほうがいい

 

高学年女子~よく見られる。

新井紀子教授講演感想~学力研全国フォーラムより

先日、大阪で開かれた「学力研・全国フォーラム2026」に参加してきました。

 

学力研とは、正式名称「学力の基礎をきたえどの子も伸ばす研究会」です。よく学校の印刷室にプリント集が置かれていますね。私もよく使います。この会は何といっても岸本裕史先生が有名。100ます計算を世に広められた先生です。

 

その会の全国大会が大阪で開かれ、しかも講演会として新井紀子先生をお招きする…とあって行ってきました。

 

新井紀子先生は『AI vs教科書が読めない子供たち』で一世を風靡した方です。最近は読解力を診断するリーディングスキルテストを開発したことでも知られます。

 

その講演会ですが、結論から言うと大変良かったです。そのエッセンスを紹介します。とはいえ、だいたいは書籍にも書かれていることなんですが。

 

・今、従来の日本式授業が成立しなくなってきた。

・その原因はテクノロジーや家庭の価値観の急激な変化である。

 例えば「オール電化なので火を見ない・紙幣や硬貨を使わない・沸騰を見たことがない・宿題をさせたがらない親」など

・だからこそ「環境に負けないレジリアントな教育の確立」が大事(新井先生は「こういう言葉を使わないと…」と嘆いていた)

・RST(リーディングスキルテスト)を開発したが、これは従来の国語教育の読解力とは異なる。だから最近ではシン・読解力と呼んでいる。

・いろいろな問題例があるが…

例:ポルトガル人追放問題:正答率 中学生で半分(2択なのに)

  素数問題:正答率 中学生で38% 教員でも55%

・RSTと全国学力学習状況調査」の相関係数はかなり高い。

・「RSTは低いのに、テストができる」→オーバーアチーバー。ドリルや暗記で点を取っているだけかもしれない。学年が上がり、読解力が不可欠になると学力が下がる可能性あり

・「RSTが高いのに、テストはできない」→アンダーアチーバー。家庭環境?教師との相性?他のことに興味関心がある?

・脳のワーキングメモリ(WM)にかかる負荷を認知負荷と言う。

・中でも課題外在性認知負荷(課題とは直接関係のない認知負荷)を下げたい。そのために何をすればいいのか?

・タブレットはむしろWMの負荷を大きくする。(例:突然シャットダウンした・文字がうまく打てない・変な画面が出た…などトラブル続き)

・学力テスト追跡調査の結果、2021年から2024年にかけて点数が下がった。その間に起こったことは「タブレットの導入」と「アクティブ・ラーニング」。新型コロナウイルスではない。(それなら2021年の段階で点数は下がっている)

・タブレットではなく、視写や音読、ページをさっと開くこと・計算の熟達など、トレーニングで負荷を下げることが大事

・なんとなく言葉を知っている子に、曖昧な言葉を使わせ、それを根拠にして授業をしてはいけない。教科書に書かれた正しい定義のもとで、授業を展開すること。

・指差し確認を3秒で全員が完了させたい。

・まずは型。すると型を破りたくなる。

・具体的な授業の仕方はRSノート初級編を参考に(ネット検索すると出てくる)。

(検索すると、やり方が書かれていた。黙読→音読→聴読→視写→校閲という流れ)

 

講演内容は以上。以下、感想。

・新井先生の本は何冊か読んでいたが、講演会は初めて。アンチ・タブレットなところが自分と似ていてとてもよかった。

・講演会自体はとてもよかったのだが、70分の予定時間を結構オーバー。これは主催者側がもっと長い尺を取っておくべきことだったと思う。新井先生目当ての人も多いだろうから、せめて講演会では90分は欲しい。質疑応答の時間もほしかった。

・新井先生の書籍を読んでも毎回思うのだが、RSTと全国学力学習状況調査の相関関係が高いのは分かるが、視写や音読などがRSTを高める理由がよくわからない。新井先生は「課題外在性負荷を下げるため」と仰るのだが、視写や音読などのトレーニングで、RSTのアミラーゼ構文や素数問題が解けるようになるとは直感的に理解しがたい。RSTとトレーニングのつながりを、もう少し丁寧に説明してほしいところ。

 

学力研についても感想。

・年々、参加者が少なくなってきているらしい。確かに登壇する先生たちの年齢層も高め。どの民間教育団体も高齢化が進んでいる印象を受ける。

・学力研の目指すところは、今の指導要領や文科省の流れとは一線を画す。だからこそ価値があるし、公立の先生には魅力的な団体ではないか。でもアピールが少し弱いイメージ。もっとSNSの発信や学校への案内をしたら?と思う。

・1日で4000円はやや高め。同日、文芸研が大阪(枚方市)で全国大会を開催していたが、文芸研は2日間で4000円だった。

・自分が参加した分科会の参加者は10名ほど。内容は割愛するが、もう少し工夫が必要かなと思った。分科会だけなら、次は参加しない見込み。あとは講演者次第。他の団体が呼ばないような方を呼んでほしい。

・学力研の良さ…がもっと伝わるといいなと思う。学力研基礎講座…的なものがあれば参加したい。1年生講座はオンラインでよくやっていて、そちらはかなり良かった。

・実践発表の岡本先生は、相当力がある方な印象。その良さをもっと分析する時間があればいいなと感じた。今回は新井先生の前座…のようになってしまっていてもったいなかった。

・学年に分かれての分科会だったが、教科ごとの分科会という手もあるのだろうなと思う。

・とはいえ、暑い中大きなトラブルなく運営してくださった関係者の皆様には深く感謝と敬意を申し上げたいです。大阪まで行って良かったなと思う研修会でした。

 

目指す子供像は、自らごみを拾う子

毎年4月、春休みにすることがあります。それが目指す子供像をノートに書くことです。夏休みになると、今の時点での学級の振り返りをします。目指す子供像にどれだけ近づいたのか検証し、場合によっては修正するためです。

 

目指す子供像は、毎年変わります。

 

受け持つ子供の実態、学年、そのときの自分の教育的考え、時代の流れ、学校の教育目標などに影響を受けるからです。

 

誰かが言っていたのか、自分で考え付いたのか分かりませんが、あるときふと思ったのです。

 

「目指す子供像は、自らごみを拾う子」だと。

 

そんなの当たり前?

 

いえいえいえいえ。

 

学級担任をしたことがある先生ならば、これがどれだけ難しいことか分かるはずです。

 

教室にごみが落ちていたとしましょう。紙きれでも、ティッシュでもなんでもいいです。

そのごみを拾う子が何人いるでしょうか?

 

多くの子は、気付いていても知らんぷり。平気でごみをまたぎます。

 

どの学校の教育目標も、研修テーマも実に高尚です。

深い学びの実装だったり、多様性の包摂であったり、高次の資質・能力であったり、自己調整学習であったり。それらは確かに価値あるフレーズですが、もっともっと、もっともっと、現実の子供の具体的な理想像を描きたい、その答えが「自らごみを拾う子」です。

 

本当に難しいです。このテーマは。

 

よく「逆上がり全員合格」や「長縄跳び連続❍回達成」を目指す担任がいます。これらも素敵なことだと思いますが、体格的に心理的に難しい子もいます。ですが、目の前に落ちているごみならば、誰でも拾うことができます。

 

つまり

 

「誰にでもできることを、誰もがする学級」

 

に育てたいのです。

 

以上のことを子供に語ったとしましょう。ごみの落ちていない学級は(ニューヨークの割れ窓理論を援用して)トラブルが少ないことを伝えてもいいでしょう。きっと心ある子供たちは、翌日からごみを拾うはずです。

 

しかしそれは全体の数割に過ぎません。また、教師が褒めて価値づけたとしても、教師が見ていないところで拾うかというと分かりません。さらに、褒めて一時できたとしても、半年たったときに学級の何割が拾っているかというと、ほとんど拾っていないのだと想像できます。

 

教師が率先して拾えばいいという考えもあります。

 

かつて先輩の先生が「ごみを自分から拾う子は、担任時代ついぞあらわれなかった。だから毎朝、私が教室を掃除していた。まあ、学級が荒れることはなかったけれどね」と仰っていました。

 

そうなんです。

 

教室がきれいであれば学級はそう簡単に荒れません。ですから教師が掃除すればよいのです。子供ですから、掃除をしても充分には行き届きません。最近は、掃除が毎日ない学校も多いと聞きますから、教師が朝、子供の机を拭いたり、床を掃いたりするのは、むしろ素晴らしいことです。

 

ですが、私が目指したいのは、自分たちの教室を自分たちできれいにし続けようとする集団です。いえ、別に教室に限ったことではありません。ごみが落ちていたら拾う。その当たり前of当たり前を、当たり前にできる子に育てたいのです。

 

目の前に落ちているごみに「気付く力」、腰をかがめて取ろうとする「行動力」。

 

どちらも大事な力です。ごみを拾う、日常の極めてささやかな行動を、自然に行える子ならば、集団ならば、いじめなど起きようもないでしょう。

 

そんなことを考えていたら、1学期は明日金曜日で終了でした。また2学期から頑張ります。

自分の子供には使わない言葉

自分の子供には決して使わなくても、学校で出会う子供には結構使う言葉があります。

 

それは

 

「無理しないでいいよ」

 

です。

 

・体調が悪そうで、体育をするかどうかどうしようか迷っているとき

・学校に来るのがしんどそうなとき

・宿題をするのが大変そうなとき

 

つまり何らかの困難に出合っている子供に対して使う言葉です。

 

この言葉は便利で、保護者への説明にも効果的です。

 

「無理しないでいいよと言ったんですけれど、本人が○○をすると言ったので…」

 

と言えます。

 

本人の思いを大事にし、本人への気遣いもばっちり。とても使える言葉です。

 

ですが自分の子供には決して使いません。

 

なぜか?

 

無理しないでいいよなんて、無責任極まりない言葉であり、甘えを助長させるだけの言葉だと思うからです。

 

自分の子供の養育の責任は私にあります。だからこそ無理をさせるときは無理をさせなければいけないと考えています。嫌なことがあったとき、大変なことがあったとき、逃げていいよと言う風潮がありますが、個人的には大反対です。逃げ癖がつくだけです。

 

ただ、学校においては話は別。無理をさせた結果、子供が潰れたり、不登校になったりしてしまっては大変ですからね。

 

つまり教員は責任をもてないので強く言えない。ですが自分の子供には強く言えるということです。

 

言い換えれば「厳しく言えるのは親だけ」となります。

 

今の時代、教師は厳しいことを言えません。たとえそれが事実であろうと、です。

 

例えば小学校低学年にして、毎回のプールを見学する子がいます。大きなけがもありませんが、親が許可している以上、教師としては何も言えません。その子は結局、10回のプール指導のうち、1回しか入らず、7月のプールは終了しそうです。(9月も実施するので、そこでどうか)

 

これでいいのかどうかは知りません。自分の子供が同様のことになったらどうするか。絶対に許しません。よほどの怪我や病気でない限り、学校のプールは皆出席させます。

 

もちろん、あまり厳しくしすぎると毒親になってしまいますので、そこの塩梅は考えます。ですが、厳しく言えるのは親だけですので、壁になることも必要かなと思うのです。