小学校教師クラメロンの日常

関西のみかんが有名な県に住んでいます。小学校教員。3.5.2.6.5異動1.4.特別支援学級.5.1という流れ。今年も生徒指導主任。

学校はそんなに悪なのか?

学校を悪く言う風潮が続いています。メディアでもSNSでも、です。

 

 

・学校なんて必要なし、youtubeで学べる

・学校は多様性に配慮できていない

 

確かにね、と思える部分もあります。

 

ただ、学校関係者からしてみると「よってたかって、学校をそこまで悪く言わなくてもいいじゃないか」と思います。「じゃあ、かわりに自分が子供たちを教育してみなよ」と。

 

学校を悪く言うと、どんな不都合があるのか?

 

2つあると思います。

 

1つは、将来学校で勤めようとする人が減少すること。最近の若者の教員離れは、教員の待遇の悪さや過酷な労働環境だけでなく、このような「学校=悪」の風潮にも原因があると思います。「その組織(学校)、社会に悪い影響を与えているよ」と言われて、好き好んで飛び込む人はいないでしょう。

 

もう1つは、保護者や子供が学校を下に見ることです。こちらは肌に感じます。「教師の言うことは聞かなくてもいい」「学校よりも保護者の意向が大事」「子供の思いが一番大切」といった流れは、ここ数年で急速に拡大しています。教員とすると、非常にやりにくいです。少し強く言うと「問題発言」ととらえられます。多くの教員はびくびくしながら仕事をしているのでは?と思います。

 

そもそも学校はそんなに悪なのでしょうか?

 

私は違うと言いたいです。

 

本の学校教育にはもちろん問題はあるでしょう。しかしながら、では海外に日本以上に優れた学校システムがあるのでしょうか? しばしば話題になるのは、イギリスの私学(パブリックスクール)です。しかしあそこの学費はべらぼうに高いです。日本のように、公教育として、優れているところはどこでしょう? 答えられますか?

 

むしろ日本の学校は、非常にうまくやっていると思います。最近話題の給食や掃除システムのみならず、学力形成にしても日本はずっと世界上位をキープしています。例えばシンガポールが最近、素晴らしい成績を収めていますが、東京23区以下の面積しかない国と日本を比べることはそもそもナンセンスです。

 

順番を抜かさずにしっかりと待つことや、落としたものが交番にきちんと届けられることなど、マナーやモラル面でも日本は優れています。これらを育んできたのは、家庭の力だけなのでしょうか。

 

「○○は悪い!」という主張は耳目を集めやすいです。しかし「本当にそうなのか?」と疑ってみる批判的思考をもちましょう。正直言って、ここ数十年の「学校=悪」を声高に唱えるだけの人は、視野が狭いのでは?

2025年総括

今回のブログ記事はかなり個人的かつ、内容も取っ散らかっているので、それを承知して読んでください。

 

・仕事に関する振り返りは年度末と決めているので割愛。

 

・良かった時間の使い方3つ。

1面白いミステリー小説読破(mediumや地雷グリコ、カエル男シリーズなど)

2落語を聞きに行った(立川志の輔

3話題の映画をいくつか見た

 

・良かったお金の使い方3つ。

1話題の映画を見た(多少高くなったが、映画はコスパ〇)

2桃をたくさん買って食べた(300円程度で幸福感が半端ない)

セブンイレブンのコーヒー(家で普段飲むコーヒーとの違いに愕然)

 

→2024年に比べて、良かった時間&お金の使い方が多かった。これら以外にもいくつかあった。例えば「ロイヤルホストのフレンチトーストがおいしかった」「バブルナイトが素晴らしかった」「他市の研修会に参加し、文科省視学官の方の話がめちゃくちゃ学びになった」「自分が開催した研修会の講師の話がとても良かった」「近所の魚屋さんの3000円の刺身盛り合わせがすごくおいしかった」などなど。

 

良かった時間&お金の使い方がいくつも出てくる1年間だった。

 

・今年度新しく始めたことは3つ。

 

1ランニング

2株

3セミナー開催

 

どれも自分の人生に大きな変化をもたらすと思った。1年間に2~3のことを新しく始められたらいい。その年がいい1年だったと思えるコツ。

 

逆に終わらせた・減らして正解だったこと

・残業(定時退勤が9割)

・分掌業務(軽い分掌にしてもらった)

・帰宅後に息子をどこかへ連れていくこと(しんどい)

 

失敗だったこと

・校内研修への参加

SNSのだらだら見(1日の時間を制限するべきか?)

・息子(主に長男)への叱責が増えてきた

 

【教育関係で思うこと】

・この子&人はちょっと困るよね~と思うような子供&保護者の割合が増えてきた印象。

・若い先生たちがすぐに休む問題。すぐに休む人は信頼できない。でも厳しくなんて言えない。

・日本の少子化は深刻。この先、仕事がなくなるのかもしれない。日本自体、泥船的雰囲気があるけれど、教育はその中でも特に泥船感が大きい。どこかでうまく抜け出さないといけないかもしれない。

 

【金銭面】

・小遣いのうち、3割をインデックスファンドに投入してきたが、国内株も始めた。オルカンやS&P500に突っ込んでおくのが正解なのだろうけれど、崩すタイミングがよく分からない。持ち腐れの感じがする。小遣いのうち、毎月数千円を株に投入し、配当金を得て、ときどき使っていく方式に変更した方が人生が豊かになりそう。

 

【政治】

・ここ2年ほどで選挙特番をよく見るようになった。とても面白い。新しい趣味になりそう。

日中関係がごたごたしている。台湾有事がそろそろ起きるのでは?と思う。トランプはプーチンにも配慮している。つまり独裁者的な人に弱い。ディールが通じないから?バイデンは台湾問題に首を突っ込んでいたけれど、トランプは静観するかも。そんな人物が大統領にいるうちに、中国は事を起こすと予想する。かねてから言われている通り、2027年あたりが心配。そのときに学校はどうなるか、株はどうなるか検討しておくのが2026年のtodoの1つ。

・高額医療費問題について。当然反対。高齢者はほとんど負担額で変更なし。相変わらず自民党政府は高齢者を優遇しすぎ。だから嫌い。国民民主や立憲民主はもっとこの点を話題にすべき。https://www.asahi.com/sp/articles/ASTDR3RC8TDRUTFL01YM.html

 

【育児】

・妻(育休中)は、家事能力はそこそこあるけれど、養育能力や意欲には欠ける。ご飯は作るけれど、読み聞かせはしない。児童館へも連れて行かない。習い事にも興味をもっていない。長男が幼稚園に通うまで、平日はひたすら家にこもっていた。だから長男は発達がゆっくりなのでは?と思う。その穴埋めとして自分が帰宅後に子供を外に連れ出したり、休日は面倒を見たりしたが、なかなか大変。

・息子(長男)がやや発達に遅れが見られることが分かった(自分は最初から感じていた。3歳児検診で指摘を受け、別の場所で確信を自分がもったので、妻に相談→発達センターへ)ので、妻の重い腰がようやく上がり始めた。妻が子供の療育や習い事に前向きになり始めたのは好材料。でもあと1年早ければ…。仕方ないか。

・息子(長男)が反抗的。こちらの叱責が増えつつある。適度に離れることが必要かな。

・体験をさせつつ、いくつかは経験にさせたい。体験は1回ぽっきり、経験は積み上げるもの。

 

【趣味】

・最近「定額制夫のこづかい万歳」(吉本浩二)を読んだ。どの回も、人生を楽しんでいる人が出てきた。「自分はこれが好きなんだ!」と言える人生はすてき。掃除・園芸・会社・お菓子・散歩・お酒・自転車・高校野球などこづかいの使い方に、その人の人生がにじみ出ていて面白い。

・自分のこづかいの使い方を思い返すと、主に2つ。1つはファミレス。もう1つは研修関係。

 

こうしてみると、結構いい1年だった。

 

良い時間&お金の使い方は記録しておくと、年末に振り返ったときに幸福感が高まることがわかった。

自由進度学習は特別支援に向いてない

自由進度学習とは、最近小中学校で流行っている授業方法です。

 

ある学習内容について、誰とどこで、どのように、どのスピードで学習するかを子供が決めることができます。自由な進度で各自が勉強していくから、自由進度学習というわけです。

 

例えば小学5年生の算数で分数のかけ算を学ぶとしましょう。

 

最初に教師が、これから何を学ぶかを伝えます。教科書で言うならばp30~p40までとしましょう。その間の学習時間を8時間(1日1時間×8日間)とします。その8時間、子供は教室や廊下、オープンスペース(広場)など自由な場所で勉強できるのです。座っても良し、立って勉強しても良し、寝転んでも良し。一人でやっても良し、教師とやっても良し、友達とやっても良し。教科書を見ながらでも良し、教師の作ったプリントでも良し、タブレットでも良し。

 

そんな授業形態が自由進度学習です。

 

なぜこのような方法が流行っているかというと、自分で決められる「主体性」を子供に育てたいからです。また、多様な子供がおり、どんどん先を勉強したい子は発展問題を、苦手な子は基礎問題を自分のペースで取り組めるからです。さらに、自立した学習者に育てることができるだろうと期待しているからです。

 

結論から言えば、私は自由進度学習には反対です。

 

第一に教師の膨大な準備が必要だからです。

第二に学力テストなどの結果は、いまいちのようだからです。(先進的な取り組みをしている学校の複数の関係者に聞いた話)

第三に、これがここで言いたいことですが、特別支援を要する子に、実は優しくない方法だと思うからです。

 

一目、子供自身が決められるのだから、子供に優しい方法だと思いがちです。しかし、よく考えてみてください。特別支援を要する子にとって、何をしたら良いかが漠然としていることほど不安なことはありません。

 

自由進度学習を推進する先生は言います。

 

「いや、自由進度学習では、学習の最初に子供に見通しを持たせます。内容や評価の方法、チェックするタイミング、終わりの日時、全て伝えるのです。」

 

……そのような膨大な情報を処理できる能力が、本当に小学生全員にあると思いますか?

 

どうしてもやりたいのなら、その日1時間の授業内で完結する程度のことで、するべきです。

 

さらに言うと、「自由」が曲者なのです。

 

例えば「誰と勉強するのか?」という自由。

 

先日私は校内研修で、「自由」の怖さを感じました。

 

研修主任が「今から○○というテーマについて話し合ってもらいます。座席は自由。誰と話し合ってもいいです。先生たちも自立した学び手にならないといけませんよ。では、はじめ!」

 

…私はすごくすごく嫌でした。

 

結果的に近くの先生たちと話し合うことになりました。しかしこの「誰と勉強するのか?」を自由にするというのは、特別支援を要する子や友達の少ない子、おとなしい子にとっては本当に苦痛なのだろうなと思いました。

 

「自由」は甘美な言葉です。

 

しかしながら、「自由」であることが本当に子供たちにとって、いや、私たち自身にとっても手放しで称賛できるかどうかは分かりませんよね。

 

ある程度、縛られているからこそ、人は安定できる部分もあると思うのです。それは特別支援を要する人たちには一層強いのだと思います。

少子化対策は子育て支援と違う!

少子化がとまりません。

 

なぜか。

 

2児の親として考えると、理由は「政府や市町村自治体などがしている対策の多くは子育て支援になっているから」です。

 

行政は様々な子育て支援をしてくれています。

 

・私の市では子供の医療費は無料

給食費も実質無償化

・子供の療育費用は無料

・民間の託児サービスの費用は半分、市が負担

・児童手当で月1万円

 

今後は18歳以下のNISAや高校無償化も始まるとのこと。

 

素晴らしいですよね。

 

しかしどれも「子育て支援」です。

 

少子化対策」ではありません。

 

給食費が無償化されたから、子供を産もう!」なんて親は見たことありませんよね。

 

少子化対策とは、簡単に言えば、若者世代に子供を産むように促す政策です。

 

確かに金銭面での援助は必要です。子供を一人育てるのに1000万円はかかる…なんて言われると、若者は産むのをためらいます。

 

ですから政府や市町村自治体は言うべきです。

 

「確かにお金はかかります。ですが、できる限りのサポートはします。児童手当をNISAで運用すれば、かなりの金額を賄えます。だから安心してください」

 

このようなアピールが圧倒的に足りていません。促しが足りないのです。

 

子供を欲しがらない若者は、次のように考えています。(職場の人たちが言っていました)

 

・自分の時間がなくなりそう。

・最近、虐待の問題をよく聞く。自分が上手に子供を育てられるか自信がない。

・もしも障害をもった子供が生まれたら…と思うと怖い。

 

私は昨今の少子化が進んでいるのは、新型コロナウイルスによる若者の出会い減少や晩婚化、未婚化だけでなく、SNSの影響がすごく大きいと思います。

 

SNSを見ると、育児へのネガティブな情報が山のように溢れています。

 

・趣味の時間が消えた

・子供を怒鳴りつけてしまった

・障害をもった子供が生まれて、本当に大変

 

これらはもちろん子育てをする上で、十分に考えられます。しかし一方で、子供をもつことでしか味わえない幸福もあるはずです。

 

・子供が笑った瞬間の幸福感

・七五三を一緒に撮影した瞬間

・一緒に旅行をしたうれしさ

・自分が親にしてもらったことを、自分が親になって子供にしていると分かったとき

 

ある方がSNSで、「子育て期間は、自分の人生の中で一番美味な時間、つまり魚で言えば『トロ』の部分だ」と仰っていました。ユニークな表現で、素晴らしいなと思いました。

 

このような「子供をもつことの喜び」を、行政がもっとPRすべきだと思います。

 

そういうとすぐに、「子供をもたない・もてない人のことを考えるべき」「行政が子供を産む・産まないをPRするなんて、人権侵害」「子供を産めなんて、戦前の思想だ」と反対する人が出てくるでしょう。

 

放っておけばいいのです。

 

それよりも急激な少子化による弊害は、この先数十年にわたって日本を苦しめます。日中関係や熊問題、米高騰などよりも、はるかに長期間、問題になり続けます。というより、全ての諸問題の原因になるのが、少子化だとさえ思います。

 

そのような大問題が目の前にあるのに、一部の人たちの批判にひるむヒマはありません。全員に好かれようと思ってはいけません。

 

ですから行政は、もっともっと子供を産むように若い世代に働き掛けるのです。

 

子供を最近産んだ芸能人に、その素晴らしさをインタビューした様子をSNSにアップしてもいいでしょう。

 

金銭的なサポートの充実ぶりを高校生や大学生に伝える授業を文科省がしてもいいでしょう。

 

子供をもつといろいろと得なことがある!と若者に思わせなければいけません。なぜなら今の若い世代は、これまでの世代以上に費用対効果を気にするからです。子供を1人産むごとに所得税を10%ずつ減額するようなインセンティブシステムも必要でしょう。

 

本当はこのような旗振り役を、こども家庭庁がすべきなのです。しかしながら、あの組織は何をやっているのか全く分からない謎組織です。参政党が、こども家庭庁を解体して、その浮いた金額を全て子供をもつ家庭に10万円ずつ配れと言っていましたが、そう言われても仕方がないくらいだと思います。少子化担当大臣は無能です。

 

困ったものです。

 

学校の役割は学力の向上か人間性の育成か

「両方大事」という意見はなしとしたとき、あなたはどちらに賛成しますか?

 

私は、学校の役割は「学力の向上」派です。

 

教師に尋ねると、「人間性の育成」派が多いと思います。社会全体としてもそうでしょうし、教員ならば特に人間性を重視するのではないでしょうか。

 

人間性の育成。もちろん大事です。

 

しかしそれは学校の役割ではなく、第一に家庭であり、第二に社会全体の役割だと思います。

 

「いやいや、家庭では学べないのが人間関係だろう」

 

そうおっしゃる方もいます。友達同士のトラブルを通して学んでいき、人間性を育てていくことこそ学校の価値なんだ、と。

 

確かにそうですね。しかしそれを主眼とするならば、「じゃあ、地域のスポーツ少年団や児童クラブでもいいよね」となります。

 

人間性の育成とは社会性の育成だけではない。学校は時間を守ることや掃除・給食などの当番をきちんと行うことなど、義務と責任を学ぶ場でもある。」

そうおっしゃる方もいます。

 

そうですね。どれも大事です。教員はそれらを学級経営と呼びます。

 

現実的に考えたとき、学級経営は今の教員の仕事の中心とも言えるでしょう。しかし学級経営を教師の仕事の核にすると、教師の仕事に際限がなくなります。朝から帰りまで教師は子供のそばにいる必要があるでしょう。結果、トイレにも行けない教師が出来上がります。そのような働き方は健全なのでしょうか?

 

「学力の向上を主とするなんて、学校は塾と同じではないか」

塾と同じではないでしょう。塾のねらいは進学実績の向上です。

 

「学力の向上」を中心に据えると、何が良いのか。

 

まず、数値で分かります。学力はテストだけで測れるものではないのでしょうが、人間性よりかは測定しやすいでしょう。

 

次に、教師の授業力を向上させられます。学校の大部分は授業ですので、教師の授業力を向上させることは、自然と様々な良い影響があります。学力の向上だけでなく、子供同士の関係が良くなるでしょう。なぜなら人間関係が悪い学級で良い授業などできないからです。良い授業をするために、良い人間関係づくりを考えるようになります。

 

さらに、教師の目標がはっきりとします。人間性の育成と言われても、何をすればいいのかが分かりません。「学力の向上」であれば、教師のすべきことは絞られてきます。

 

 

人間性の育成はとても大事です。しかし学校の役割として人間性の育成を据えてしまうと、際限がなくなってしまいます。とはいえ、もちろん何もしないわけではありません。子供同士のトラブルがあれば介入しますし、給食や清掃指導も引き続きします。

 

その学校で一番大事なことは何か。何を大事にするのか。

これにきちんと答えられる教師集団ならば、その学校はきっと成長するでしょう。

 

問題解決の主語は子供

ときどき放課後、保護者から学校に電話がかかってきます。

 

「うちの子が、来週の発表会が不安みたいです。」

「うちの子が、下校中バカと言われたそうです。」

「うちの子が、今日の宿題が何か分からないそうです。」

 

…このような電話。私はいかがなものかと思います。

 

なぜならば問題解決の主語が保護者になっているからです。

 

問題解決の主語は子供であるべきです。

 

トラブルが起こったら、子供に解決するように促さなければいけません。

解決をできるかどうかは分かりません。できなければ大人が出ていくこともあるでしょう。しかしまずは、子供に問題解決をさせましょうよ、という話です。

 

例えば「友達にバカと言われた」としましょう。

 

まずすべきことは、言われた子自身が相手の子に「そういうことを言うのはやめて。悲しい」と自分の思いや、やめてほしいことを伝えることです。

 

保護者が自分の子から訴えを聞いたとしても、「相手の子になぜそういうことを言うのか聞いてみたら?」や「やめてとしっかりと言ってごらん」と促しましょう。

 

その上で何も変わらなければ、次に子供自身が教師に伝えるのです(友達に相談するのも手)。

 

それでも変わらなかった場合に、親が学校に電話をするなら分かります。

 

しかし全てをすっ飛ばして、いきなり保護者が学校に電話をするケースが最近増えています。

 

これでは子供の問題解決能力は育ちません。

 

いつか困ったことが子供に降り注いだ時に、どのように問題を解決すればいいのかを考える思考力や、友達や先生に援助するスキルや、相手に伝えるアサーションの仕方などを学べません。

 

このような力は、実際に経験を積み重ねることでしか得られないのです。

 

もちろんコツは教えます。

 

「嫌なことを言われたら、すぐにその場で『やめて』と言おう。その時に笑って言ってはいけないよ。真顔だ。真顔で一言、はっきりと『やめて』と言う。練習をしてみよう。隣の人にバカと言ってみて。そのあと、もう一人が『やめて』と言う。ペアでやってみてごらん。」

 

などというふうにです。

 

しかし究極的には経験を積むしかありません。友達から言われることは「バカ」ではなくて「どけ」かもしれません。トラブルは常に応用問題として降りかかってきます。その都度、どうすればよいかを考え、後から振り返ることでしか問題解決能力は育まれないのです。

 

次のように言う人もいます。

 

「自分の子供は相手に『やめて』なんて言えない。教師にも自分から話しかけられない子なんだ。だから親が守って代わりに言ってあげないとだめだ。」

 

……それでは核シェルターの中で生きてください、と返したくなりますね。

 

緘黙の子ならば分かります。しかし一般的な子供ならば、ある程度、委ねてみましょうよ。学校で小さなトラブルを経験しておくことは、社会に出たときの耐性になります。

 

保護者としたら、子供から何か悲しい訴えが来たら、すわ自分が解決を!と思うかもしれません。しかし一呼吸おいて、子供の思いを聞き、何をしたらよいかをアドバイスしましょう。

 

それでもどうしても学校に言いたいのであれば

 

「○○ということが子供にあったようです。子供が何かを言ってくるかもしれませんが、そうしたら聞いてもらえますか?」

 

と伝えましょう。

 

とにかく問題解決の主語は子供にしましょうよ、という話でした。

奈須正裕先生の講演を聞いて

先日、中央教育審議会中教審)の委員でもある奈須正裕先生の講演を聞きました。

 

氏は指導要領の改訂の中心的人物として知られます。今の日本の教育界の第一人者と言って良いでしょう。

 

講演はとても勉強になりました。

 

氏の主張は

「各学校がもっともっと創意工夫すべし」

「今後のテーマは『多様性の包摂』と『自立した学習者』」

「そのためのひとつの方法が自由進度学習」

でした。

 

なるほどな~と思うことが多くありました。例えば昔は中間層がたくさんいたから、中間層を対象として一斉指導が効果をあげた。しかし今は中間層が減った。だからこそ一斉指導を見直すべきというのは、その通りだと思いました。

 

一方で、それは違うな~と思うこともいくつか。

 

まず、新型コロナウイルスによる一斉休校のときの話。研究者が「日本の子供は自立した学習者になっていない。一斉休校のときになにをすればいいか分からない子が多くいた。今も状況は変わっていない」とよく言います。奈須先生もこのようなことを仰っていました。

 

だからこそ教師がいなくても自分で学習を進められる「自立した学習者」に子供を育て上げる必要がある。そのために例えば自由進度学習がある、と。

 

なんとなく「たしかにそうだよね」と思いがちです。しかし私はこの考え方に反対です。

 

前半部分は納得をします。自立した学習者になる…大事ですよね。世界でそんなことができる児童生徒がどれだけいるか知りませんが。

 

問題は後半部分です。なぜ自立した学習者を育てるための方法が自由進度学習なのか。

 

自由進度学習はある一定の単元内で、学ぶ場所、進め方、学ぶ相手などを個人が自由に決めて学ぶことができる方法です。最近、流行っています。

 

自由進度学習は教師の膨大な準備のもとなら成立すると思います。しかし自由進度学習が自立した学習者につながるかというと、私は疑問です。自由進度学習であっても、教師の最初の手ほどきやガイダンス、何より一斉授業以上に必要な相当量の準備があります。自由進度学習は友達と行う場合も多々あります。それなのにどうして次に同じような一斉休校があったとき、自由進度学習をやっていた子ならば自分で学習を進められるだろうと言えるのか。

 

そもそも自立した学習者になることなど、少なくとも小学生には無理だと思います。中学生以降であっても、他者の協力や圧力なしには無理でしょう。大人だって同じです。会社に行かねばならないという圧があるから、行くのです。国語教育の大家である野口先生はそれを「他律的自律」と呼んでいらっしゃいます。

 

奈須先生は別に単元内自由進度学習を絶賛していませんし、それのみが進むべき道だとも仰っていません。むしろいろいろな方法があると仰います。ですが奈須先生が単元内自由進度学習を肯定的に思っているのは充分に伝わってきました。だからこそ現場の先生たちは自由進度学習に飛びついていくのです。

 

その次に、「余白」の使い方についてです。

 

今度の学習指導要領改訂の目玉のひとつが、「余白」の設定です。各学校で最大で10%、授業時数を減らすことができます。減らした分を、別の教科や職員の研修に充てられるのです。

 

なかなか面白いアイデアですよね。

 

ですが各校に「創意工夫を考える」そもそものゆとりがあるのか。

 

各校が創意工夫を考えるとき、校長は方向性を示しますが、具体的な教育課程は教務主任が中心に進めます。その教務主任は既に膨大な仕事を抱えています。加えて各校で創意工夫をするときに、教務主任はその負荷に耐えられるのか。

 

おそらく新学習指導要領になって、最初の1~2年間は様子見でしょう。そこから各校が横の繋がりを通じて、教育課程を変更していくと思います。

 

3つ目。「ドリルはなくなればいいと思っている」という奈須先生の意見にも反対です。

 

これは単なる繰り返しに価値はないという発想ですよね。確かに、意味を理解することが深い学びにつながるのは事実でしょう。今の風潮を考えると、ドリル的学習は旗色が悪いなと思います

 

ですが私はドリルは大事だと考えます。

 

奈須先生が話すような学び方は全て、中学以降には良いと思います。

 

しかし小学生はやはりドリルが大事ではないでしょうか。意味は理解しても、翌日になれば忘れるのが小学生です。もちろん、分かっている子もいます。しかし奈須先生がよく例示に出す奈良女大附属小や富山の堀川小などはかなり優秀な子が集まった学校です。外国籍の児童や就学支援が必要な家庭が多く在籍する学校では当てはまらないと思います。

 

ドリルの良いところをさらに1つ。よく言われることですが、前頭前野の血流量が増えるのは、音読や単純な計算をしているときです。これはその通りだと思います。現場の感覚として、毎日のように100ます計算をしていたときの学級は、次第に落ち着いていきました。

 

全体として、講演会自体はとても勉強になりました。しかし節々で、私とは相いれない部分がありました。究極的には、経験主義的な学びを大事にする奈須先生と、系統主義的な学び、規律や訓練にこそ学校の役目があると思う私とで差があるのだなと思いました。

 

特別支援学級で大事なのは愛される子に育てること

先日、X(旧Twitter)で『みいちゃんと山田さん』(亜月ねね)のことが話題になっていました。(普段からよく話題になっていますが)

 

その中で目にとまる投稿がありました。

 

「みいちゃんが段々と『助けたくない弱者』になっている」

 

知的障害が疑われる(十中八九)みいちゃん。それだけなら「かわいそう」「助けたいな」と思うのが人情です。しかしそのみいちゃんが、友達に万引きを教えたり、売春の勧誘をしたりしていたのです。

 

社会の被害者と思われていた「みいちゃん」は、実は加害者でもあったわけです。

 

そもそもみいちゃんは、小中学校時代、特別支援学級に入ることを親が拒絶したためずっと普通学級に在籍していました。そこできちんとした生活スキルを学んでおけば、また人生は変わっていたことでしょう。生活スキルとは、ご飯を作る・洗濯をする・掃除をする・毎日決まった時刻に起きるといったことだけではありません。人に会った時に挨拶をする・服は畳んでしまう・靴は揃える・唾を吐かない・人に暴言を吐かない・給食はこぼさずに食べる・トイレから出たら手を洗う・ハンカチで手を拭くといった、もっと根本的な当たり前も入ります。そういった生活スキルを特別支援学級では学びます。もちろんそんなこと当たり前にできているという子供もいますが、特別支援学級の場合はそうではない場合もありますし、普通学級以上に徹底されています。

 

なぜ特別支援学級できちんとした生活スキルを学ぶのか。

 

それは学校を出た後、その子が自立していけるようにするため、というのもありますが、それと同時に「愛される子になってほしい」という願いが特別支援の世界にはあるからです。

 

考えてみてください。

あなたの身の回りに、服を脱いだらそのまま・唾を吐く・トイレの水を流さない・トイレから出たら手を洗わない・疲れたから道に座る・勝手に人の持ち物を触る…などの行為をする人がいたとしたら?

 

しかもその人は知的に問題があり、援助が必要だとしたら?

 

人は不潔なことをしている人が嫌いです。

人は暴言を吐く人が嫌いです。

 

特別支援学級に通う子は、この先も何らかの援助の手が必要であることが多いでしょう。だからこそ「この人には手を差し伸べたいな」と思える人に育てなければいけません。そのためには「人に危害を加えない」ことは大前提。その上で「清潔感を出すこと」や「最低限のコミュニケーションをしようとする意思(例えば挨拶や返事)」、「身の回りの自立」をきちんとしなければなりません。

 

みいちゃんは残念ながらそのどれもがほとんどできていません(挨拶・返事はまあいいかなというレベル)。食べ方は汚いし、部屋も乱雑、言い方もきついです。ゆえに読者でさえ、だんだんとみいちゃんに愛想をつかし始めているのです。

 

愛される子に育てることはきっとどの子にとっても大事なことなのでしょう。しかしながら特別支援が必要とする子にとっては、とりわけ必要なことだと思います。

子供の違いは語彙にあらわれる

本校は市内で教育困難校と呼ばれています。

 

教育困難校と一般の公立小、あるいは附属の小学校とで何が違うのか。

私は「語彙にこそ違いがあらわれる」と思います。

 

ある日のこと。図書室に行きました。

図書委員が作ったであろう、本のおすすめコーナーがありました。本とともに手書きのポップが添えられていました。微笑ましいですよね。

 

ただ、正直言って、図書委員(高学年)が読む本なのかな?と思う本ばかりでした。

 

全校向けなのだから、高学年向けの本でなくてもいいでしょ?と思う人もいるでしょう。確かにそうです。しかし問題は、おすすめコーナーの本全てで、「それは低学年か、せいぜい中学年向けの本では?」だったことです。図書室には高学年もいくのですから。

 

本を読むのに、~向けなんてナンセンスという人もいるでしょう。確かにそうです。それは否定しません。

 

しかしながら低学年が読む本と中学年、高学年が読む本とでは、当たり前ですが出てくる語彙も内容のレベルも変わります。図書委員がわざわざ人にすすめるということは、普段から同じような本を読んでいて気にいっているということでしょう。柔らかい食べ物は離乳食としてはいいですが、いつまでたっても歯ごたえのないものばかり食べていては歯が丈夫になることなどありえません。

 

つまり本校の子供たちの読んでいる本は、他の学校に比べて1~2年低年齢向けの本の可能性が高いわけです。実際、子供たちを見ていても思います。他の学校に勤務していたときに比べて、「文字が少ない・絵が多い」本を読んでいる子が多いです。

 

以前、附属小に行ったとき一番驚いたのが、始業前に子供たちが「それは中学生向けでは!?」と思うような本を読んでいたことです。

 

どの本を読んでもいいという意見には私も賛成します。

 

しかしながら言葉が少なく、絵が多い本をいつまでも読み続けていても、その子の語彙は変わりません。

 

語彙が増えないとどんな問題があるのか?

 

語彙が少ない子は、表現力が乏しく、相手の言っていることをしっかりと理解できません。

当たり前ですよね。「友達の素敵なところを見つけてね」と言われて、「素敵」が何かを分からなければ学習になりません。「友達のよいなと思うところだよ」と毎回教師がかみ砕いて説明しなければいけないわけですが、いつもできるかどうかは分かりません。

 

友達とのトラブルも多いでしょう。「○○くんが殴ってきた!」と言いつけに来る子供がよくいますが、「何があったの?」と尋ねると何も答えられない子供がとても多くいます。

 

過去に比べて核家族が増え、家族のコミュニケーションが減った現在、それを補える可能性があるのは読書だと思います。しかしその読書が困難校ほどできていません。

 

それはなぜか?

だからどうするか?

 

これらについては別の機会に書こうと思います。

教師はなぜ授業がうまくならないのか?

ここのところ立て続けに研究授業を見る機会がありました。

 

研究授業後は必ず協議会が開かれます。たいていの場合、グループになって互いに授業を見ての感想や改善点を話し合います。

 

そのとき、どの先生も的を射たことを仰います。

・学習課題(めあて)が「すごいと思ったことを見つけよう」だと漠然としている。もっと具体的にしないと。

・課題が2つあって子供は分かりにくかったと思う。課題は1つに絞ったほうがいい。

・写真のサイズが小さくて見えにくかった。

・音読が授業の冒頭1回だけというのは、国語の授業としては寂しい。

・多くの子は今日の課題の意味が分かっていない。

・「スーパーの工夫」は分かりにくい。「たくさん買ってもらうためにお店の人が何をしているのかな」だったら分かりやすい。

 

などなど。

 

協議会はとても勉強になります。

 

しかし私は疑問に思いました。

 

「これだけ素晴らしく的を射た発言をするのに、多くの先生の授業はなぜつまらないのか?」

 

「つまらない」はいろいろな意味を含みます。単純に「おもしろくない」もありますが、「退屈」や「子供が生き生きとしていない」「学力が身に付かない」などの意味もあります。

 

端的に言えば、多くの先生たちは授業が下手なわけです。

 

なぜでしょうか?

 

岡目八目という言葉があります。傍から見ていると、よく見えるという意味です。

 

授業者は必死ですからね。参観者の方がいろいろなことが見えるのかもしれません。

 

しかし私は次の点があるのかなと思いました。

 

1 教師の多くは研究授業を参観しても、そこから得られることを一般化できない。

2 一般化したとしても、自身の授業に転移させられない。

3 転移させられないのは「授業の準備の時間が足りないから」と「授業後に振り返る時間を取っていないから」。

 

 

1 研究授業を参観しても、そこから得られることを一般化できない。

 

この点が最初にして最大の壁だと思いました。

例えば先日見た生活科の授業(1年生)のこと。秋のもの(どんぐりやまつぼっくり、落ち葉など)を使ってお店を開き、幼稚園児を招待するという授業でした。その日の学習課題(めあて)は「幼稚園児がわくわくするようなお店にするには、どうすればいいのかな?」でした。

 

研究協議会では「わくわくする」の意味が漠然としていて、子供によってイメージが異なるという意見がいくつも出ました。「わくわくする」ではなく、もっとシンプルに「楽しむ」や「何度もやってみたくなる」の方がいいのではないか、と。

 

なるほどな~と思いました。しかしそこで終わってしまっては、その授業のみの個別的な知識にすぎません。ですから一段上の一般的な知識にしたほうがいいでしょう。先の例で言えば「わくわくやどきどきといった擬態語・擬音語の言葉は学習課題にはあまり向かない」や「わくわくやどきどきといった言葉を使うのなら、授業の冒頭に全員で、『どんなお店だとわくわくするかな?』と具体化するといい」にすると、自分の授業作りをする際に役立つことでしょう。

 

つまりポイントは、協議会で得られた知見を一般化することです。

 

もちろん授業は文脈的・条件的なものです。その学級だからこそ、その学習課題・学習活動になったという場合はよくあります。しかしながら、一般化をしようという気持ちが全くないと、いつまでたっても自身の授業に役立てることができません。

 

ですから理想的な研究協議会では、ただグループで話し合うだけでなく、「では今出てきた意見をまとめてみましょう」と司会が促したり、講師の方や助言者が一般化して参観者に返したりするほうがいいでしょう。

 

2 一般化したとしても、自身の授業に転移させられない。

 

仮に一般化できたとしても、自身の授業に転移できるかは別問題です。

 

例えば先日見た体育の授業では、台上前転を繰り返す子供たちがいました。その子たちで台上前転を見合っていますが、いまいち上達しません。結局その日の授業中、向上的な変容は見られませんでした。

 

研究協議会では「子供たちの中で動きを見る視点が備わっていなかった」という意見が多く出ました。そこから得られる一般化は「子供たちに、どうすればねらいとする動きができるようになるか、そのポイントをいくつか事前に教える」です。しかし多くの先生たちは自身の授業に転移させられるわけではありません。自分の授業でその場面がイメージできなかったり、そもそも動きのポイントを教師自身が分かっていなかったりするからです。経験を積み重ねるうちにイメージ力もポイントも身に付いていくので、こればかりは経験年数の違いもあるでしょう。しかしながら、なぜ転移できないかというと、次の3つ目の点があります。

 

3 転移されられないのは「授業の準備の時間が足りないから」と「授業後に振り返る時間を取っていないから」。

 

結局のところはここに行きつきます。

 

多くの先生たちは授業準備をいつしているのでしょうか。ある先生は夜の職員室、別の先生は家族が寝静まった後にしている、また別の先生は特に何もせずぶっつけ本番で臨んでいる…。

 

こんな多忙な労働環境下で「あのときの研究協議会で得られた知識を生かすと、明日の授業の学習課題は…」なんて考えられるはずがありません。

 

もっと教師が授業に注力できる環境にしないといくら研究授業を参観しても意味がないでしょう。

 

あと、多くの先生たちは授業準備はしても、振り返りをしていません。子供たちには振り返りをさせるのに、自身の授業は全くといっていいほど振り返りません。

 

何も授業参観をして研究協議会に参加せずとも、毎日の授業を振り返って一般的な知識に昇華していけば、おのずと授業力は向上します。

 

それをできないのはなぜか。

 

まず授業を振り返るというそもそもの習慣がないからです。しかしながらその根底には、授業を振り返るだけの時間的ゆとりが教員にないからです。

 

ですから授業力を向上させたいのならば、やみくもに研究授業を参観する機会を設けるのではなく、そもそもの教員の働き方を見直さなければいけないのです。