小学校教師クラメロンの日常

関西のみかんが有名な県に住んでいます。小学校教員。3.5.2.6.5異動1.4.特別支援学級.5.1という流れ。今年も生徒指導主任。

今年度の反省と原因の分析、そして対策 1

メモ書きです。流してください。

 

・クラスがゆるみすぎた

規律よりも自由を尊重したことが原因。そうなった最大の理由は9月以降にあり。なぜなら夏休み前までは規律の整ったクラスだったからだ。年間で最も大切なのは4月であるが、それで学級づくりは終わりではない。しばしば4月で学級が決まるというが、そうではないと思った。4月はやはり、あくまでスタートライン。スタートダッシュで成功しても、途中でへばったり、棄権してしまったりしては意味がない。4月が終わったとき、1年後のゴールを見据えて、どれだけ鍛え続ける覚悟があるかが大事。その覚悟と戦略がなかったのが失敗の最大の原因だと思う。では次年度はどうするか。最終的なゴールの姿を明確にすること。そのために、常に向上的変容を子供に求め、鍛え続けること。具体的には、毎月ごとの振り返りである。私だけではなく、子供たちも月々を振り返る。その際は1年間を通して変わらないチェックリストを作り、数値化、さらにクラスの現状を可視化する。つまり、理想の学級像を、より具体的な場面でそう適して、具体的な子供の姿をイメージできるかどうかが1つ目のポイント。さらに、理想の学級のために年間を通じて子供を鍛え続ける覚悟をもてるかどうかが2つ目。精神論で終わらないためにも、毎月のチェックと振り返りを子供と教師が実施して、クラスの今を数値化する。加えて、4月の段階から安全・安心のクラスづくりと同時に、協同的な学びの場と自立したクラス作りに向けて、種をまく作業をしていく。10月の後期スタートと同時に、教師がいなくても1週間学級が無事に運営されるクラスを目指す。

 

・言葉遣いが悪い。

これも上記と同様。ことあるごとに、言葉遣いの悪いことがどれだけ良くないかを伝えていくべきだった。つまり、私は今年一年、子供との戦いに負けたのだ。

 

・書く力が弱い。

原因ははっきりとしている。書く時間を作っていなかったから。国語の力、それも書く力は国語の時間のみで伸ばすことはできない。全教科をフルに使って初めて、書く力は伸びる。私の中で「書く力」を核にした学級経営を行っていなかったのが問題。来年度は「書く力」を中心に据えた学級づくりをしていく。では具体的な方策は?

帰りの会で、毎日、振り返り日記を書く。

・すき間時間に言葉遊びをしたり、語彙を増やす活動を行ったりする。

・国語と理科を連動させて、理科説明文を書く。

・算数では「手順・理由・求め方」などを自作テストで問う。

・社会では気付いたことを箇条書きにする活動をしたり、友達の意見を聞き、自分はどう考えたのかを振り返りで書く時間を設ける。

・体育では各種ゲームのルールや遊び方を説明する時間を設ける。

・国語では視写の時間を設ける。

などなど。

4月から意図的・計画的に実施する必要あり。最終的にはどんな子供の姿を目指すのかは担当学年によるだろう。

 

・「何によって学級をまとめるのか」がなかった。

これだけはほかのクラスに負けないというものがほしい。この視点は今年初めて生まれたもの。来年度は「書く力」に焦点を当てる。教科で言えば国語。

 

・全員で遊ぶというのが機能しなかった。

本校では毎週水曜日が長休みと言って、35分間の昼休みが与えられている。これまで毎年、クラス全員で遊ぶ時間としていた。が、それが今年は機能しなかった。原因としてはまず、委員会活動があったことがある。また、走る系よりもドッジボールが好きな児童が多かったこともある。一方でドッジボールが苦手・嫌いな子供も多かった。すり合わせに苦労した。つまりはレパートリーが少ないのだ。そのため、最初の1か月間は教師が主導して、いろいろな遊びを設定してやる。ルールも作ってしまうのが良いと思う。さらにいうなれば、今年は私が運動会の実行委員だったため、ほとんど休み時間に子供といられなかったのも大きいかもしれない。そう考えると、無理に全員で遊ばなくても良いのかも。これは自分の校務分掌と兼ね合いを考えながらだろう。

 

・孤立児

今年一番悩んだこと。ある女子がクラスで浮いてしまったこと。やはり、本児の自尊感情を高めずして、いろいろな女子とかかわらせようとしたのが間違いだった。自尊感情が高まり、自分に自信が持てて初めて、他者と触れ合うことができると思うからだ。自分のことが嫌いなのに、他者を受け入れることなどできない。本児の自尊感情を高めるために、私はときおり係り活動や委員会活動でがんばっている姿を褒めるだけであった。が、これではあまりに弱かった。本児を褒めるには、やはり授業とテストだろう。(自尊感情は学力向上により高まるらしい。)まあ、決しておつむが良いわけではないが、(というより、かなり低い)そんな児童をいかにしてできるようにするかが教師の腕の見せ所。つまりは授業力と学習指導力にかかっている。そのうえで、適切な係りや委員会の配置をする。あとは、あまり関わりすぎないことか。教師依存型の子供に育ててはいけない。あくまで目指すは自立だ。

2月という月

今月は忙しかった。

まず授業参観があった。今年度最後の参観日は国語をした。特設単元だった。このような単元は参観日でなくとも設定していきたい。

月の前半はいくつかの研修会に参加した。また、某有名小学校にも参観に行った。

前半は授業よりも、6年生を送る会の準備が大変だったように思う。それも今日で全てが終わった。素晴らしいものではなかったが、及第点には達したと振り返る。早め早めに手を打っていったのが功を奏した。大切なのは前任者に聞くことだ。

学級通信もよく出した。来年度はもっとレイアウトのバリエーションを増やしたいものだ。だが、初めてにしては悪くないと思うし、内容は授業のこと、特別活動のこと、学級のこと、多岐に渡っていて、読んでいて飽きないのではないか。学級通信は今年度に頑張ったことのひとつだ。

そう大きなトラブルはなかった。ある男子がやや情緒不安定で、手がかかったが、そのくらいだ。しかし全体的にクラスはふわふわタイムである。忙しない日々だからこそ、読書や読み聞かせをして心を落ち着かせたい。

後半は授業とテストに追われた。やはり、もう少し早めに授業を計画すべきだった。

通知表はあと1週間早くに完成できれば完璧だったと思う。ネタはメモして、適度なタイミングでエクセルに打ち込む必要あり。

残業時間は多分、100時間を超えた。管理職から言われるかもしれない。だが、まだ効率を重視する年齢でもないと思う。

花粉が飛び始めた。インフルエンザはまだ誰も罹患していない。

なぜも2月は早いのか。不思議だ。

忙しくも、それなりに充実していた。しかし、2月は2月以前に勝負が終わっているのだ。雑務も学級経営も全てこれまでの蓄積の結果だと思う。反省の対象は2月ではなく、もっと昔の自分である。

2月の終わりに

毎年思うことですが、この時期は忙しいです。事務処理や通知表はもちろんですが、今、私が最も問題視しているのは授業の進度とテストの実施状況です。

 

端的にいえば、終わるかどうかの瀬戸際です。というより、このままいけば、終わらない気がします。困ったなあと。

 

なぜこうなってしまったのか。それを考えていけば、対策が浮かぶはずです。

 

・進められる教科をどんどん進めていなかったこと

・終わりを見据えていなかったこと

・テストの計画を立てていなかったこと

この3点だと思います。

 

初めての高学年。理科や図工、総合など、1人では進めにくい教科がありました。ならば、1人で進められる教科は少し早めに進んでおくべきでした。

 

基本的に、授業やテストは2月末までに終えるつもりで進めるべきでした。そうすれば3月前半はまとめに充てられます。授業やテストを2月に終えるには、どうすれば良いか。私は3学期と言うよりも、2学期に勝負をかけるべきだと思います。1学期は学級開きがあったり、運動会があったりで忙しいので、なかなか授業が進みません。だからこそ、勝負の2学期となるわけです。算数はともかくも、国語や社会に関しては、できれば半~1単元ほど、前倒しで進めていきたいものです。

 

さらに、全てのテストを事前に確認しておく必要もありました。これで最低限、押さえるべきポイントが分かります。さらに、それぞれの学期において、何枚のテストを行うのかが分かれば、月当たりのテストの枚数も予想がつきます。テストの実施も含めた計画的な授業設計が大切です。

 

授業を丁寧に、しっかり行う技術はもちろん大事なのですが、軽く、さらっと済ませる技術も同じくらい必要というわけです。すべては段取り力にかかっています。

子供を伸ばす学校

今日も偉そうなことを書くことをお許しください。

 

先日、某有名小学校に行ってきました。

 

教科指導もさることながら、先生方が、学校全体の取り組みに自信を抱いている印象を受けました。

 

研修の帰り道に「子供を伸ばす学校と、そうでない学校の違いは何か」を考えました。

 

現在の私の答えは

 

「学校中の教員が、その学校が目指す方向を明快な言葉で語ることができるかどうか。」

 

です。

 

その学校ごとに重視する取り組みは違っていていいと思います。教科指導を極めるでも、話し合いを大切にするでも、追究学習に重きを置くでも、自力読みができるようにするでも、なんでもです。子供を育てることにつながるのであれば、どれでもいいのです。ただ、学校ごとに決めた方向に、全教員が向いていなければ意味がありません。

 

聞き合いを大切にしましょうと言っているのに、授業の内容は講義形式の学級があったり、活動主義的な授業ばかりの学級もあったり、ではいけないと思います。何がダメかと言うと、系統立てていないところです。その先生、その学級ではうまくいっても、次の年、新たな学級では別の先生が大事にする事柄のもとで、子供は育ちます。前の学年で得た力が効果的に生きることはないでしょう。

 

一人ひとりの先生の個性をなくせと言っているわけではありません。学校の中で、特に大切にしたいことや、育てたい力を、何か1つでいいから共有したほうがいいということです。他は各先生の自由でいいでしょう。ただ、特に大事にしたい1つのことがあれば、それを軸に子供を育てることができます。

 

しかし、大事にしたいことは単なる学校目標としても意味がありません。各学校の取り組みを、全教員が具体的な言葉で語れるかどうかが肝要でしょう。

 

そんなことを考えながら私は、子供を伸ばす学校であるためにも、校長先生の考えをしっかりと受け止めたいなと思いました。おわり♪

東京研修2.6

先週の土日は某附属小学校へ研修に行ってきました。

2つの授業を参観しました。ともに国語の物語文でした。

以下、思ったことを。
・叙述を基にした確かな読みと、想像力を発揮した豊かな読み
・初発の感想を交流しあうことは、読みの多様性を認めることにつながる。子供たちの国語への関心を高めうる。
・各学年の発達段階に合わせた学習用語を使うことが大事。
・書く力をつけたい!
・教師はしゃべりすぎてはいけない。
・これからの教師の役割は、知識の伝達ではなく、議論の交通整理役。ファシリテーターってやつ?


教師は1年勝負!

教室は30人の人間が集まります。30人もいれば、「○○君と相性が合う合わない」という問題が生まれます。子供同士でも生じますが、教師と子供の関係でも合う合わない問題はあります。無論、教師はどの子も平等に扱いますし、「この子とは合わないから」と言って切り捨てることはしません。できるだけの愛情をかけて、どの子とも付き合いますし、指導もします。しかし、子供は違います。子供の持つ「この先生とは合わない!」という感情を、子供が理性的に抑えることはそう簡単ではないでしょう。それは悲しいことですが、現実としてそうなのだから、仕方ありません。

 

だからこそ、担任は1年交代でありたいと思います。

 

持ち上がりの良さは、子供を長い目で見ることができる点にあります。指導をじっくりと行うことができる良さもあります。しかし、相性の問題はそのようなメリットを打ち破ると思います。

 

私と相性が合う子供はいいかもしれません。しかし、クラスの中には、口には出さずとも私のことを好きでもなければ、尊敬も信頼もしていない子がいると思います。私はそれが普通だと思います。30人全てから好意や尊敬、信頼を得ることは不可能に近いとさえ考えています。それができるのは、よほどのベテランか、あるいは宗教家だと思います。

 

もしも来年、私と相性の合わない子の担任が、また私だったとしたら。その子にしてみれば悲劇です。「相性の合わない人間と付き合う術を学ぶ」というのは学校の役割の一つだと思いますが、2年も3年もそんな学びを続ける必要はありません。

 

私と相性の合う子にしてみても、相性の合う人間としか過ごさないというのは、その子の人生にあまり有益と思えません。いろいろな大人と付き合い、付き合い方を学ぶべきです。その意味では、もっと小学校でも教科担任制を推し進めるべきです。

 

現在、私が担任している5年生の子供たち。彼ら彼女らの卒業を、6年生の担任として見送ることはしないつもりです。ゆえに、残り1ヵ月半が貴重な日々となります。

不登校について

「学校に行くのが無理なら、行かなくてもいい。勉強ができる場所ならばいくらでもある。」

 

・・・というようなことを、茂木健一郎氏がブログでおっしゃっていました。

http://lineblog.me/mogikenichiro/archives/1185288.html

 

間違ってはいないと思います。

 

しかし、私が見てきた中で、不登校の子が自ら学びの場を求めたり、社会性を身に付ける場を探したりすることは、残念ながら、かなり少ないと感じます。

 

私が言いたいのは、「学校が嫌なら、無理して行かなくてもいい!」というのは、間違いではありませんが、あまりに無責任ではないか、ということです。無理して行かなかった結果、どういう将来が待っているのでしょうか。無理して行かなかった結果としての未来をだれが過ごすのかと言えば、それは本人しかいません。

 

教師も含めて、我々大人は、その子の人生の責任者になどなれるはずはありません。にもかかわらず、「学校が嫌なら、無理して行かなくてもいい!」とは言えません。

 

では、不登校の子は、無理してでも学校に行くべきかと問われれば、そうとは言えないと答えるしかありません。