5年生国語、大造じいさんとガンの授業を見ました。
授業のゴールは主題の読み取り。そこに至る過程で
1クライマックスの検討
2大造じいさんのガンへの見方の変容を3.4場面で読む
の2点をされていました。
参観後、強く思ったことは、クライマックスの検討は泥沼にはまる恐れがあるということです。もっと言えば、授業のリスクが高い。
中心人物の心情の大きな変容点を見つける学習は、ともすれば這い回ることになりかねないという思いを強くしました。
大造じいさんとガンは特にそうだと思います。
A大造じいさんは何と思ったか~銃を下ろしました。
B大造じいさんは強く心を打たれて~。
の2つはそう簡単に議論が尽きません。
結果、曖昧なまま授業が閉じます。
もちろん、クライマックスの検討は、答えを1つに絞ることが狙いではなく、見当の過程で中心人物の気持ちがどう変わったのかを読み取ることが目標です。が、子供としてはすっきりと答えを知りたいでしょう。その「答え」に持っていくのが大変に難しい。
私が次に授業をするなら、あえて泥沼にはまりかねない、クライマックスの検討は行わないと思います。「残雪め」「ただの鳥に対しているような気がしない」「えらぶつ」など、残雪に対する呼称から、大造じいさんの残雪への見方の変容を捉えさせる授業をするかな、と。
それと、授業後、ある先生が質疑応答でおっしゃっていた言葉が強く印象に残りました。
「この授業では先生が子供たちに決めさせていた。子供たちが主体的に決めることはなかった。」
あー、自分の授業もそうだ、と思いました。
授業の最初は受動的でいいと思うのです。最初は先生に決めさせられてもいいと思うのです。ですが、中盤以降は子供たちが主導権を握る。そんな授業にしていきたいです。まさに、正木先生がおっしゃる「受動から能動へ」。
とはいえ、終始笑顔を絶やさず、穏やかに子供に接されていた先生の姿自体が私にとっての何よりの勉強でした。
定番教材は公開しにくいと思うのですが、あえて公開をしてくださり、多くの気付きを与えてくださった先生に深く感謝をしたいです。