小学校教師クラメロンの日常

関西のみかんが有名な県に住んでいます。小学校教員。3.5.2.6.5異動1.4.特別支援学級.5.1という流れ。今年も生徒指導主任。

文芸研セミナーまとめ

・文芸教育の目的は3つ。言葉・表現の教育、美の教育、人間の教育。

・1語1語にこだわるのが文芸研という印象。

・類似性と対比性に着目。

・詩は音楽性と絵画性の2種類があり、詩を読むときに、どちらの性質が強いかを考える。

・おもしろさは何か。

・思想、つまり主題は何か。

・解釈に絶対の答えはない。どれだけ深い解釈だったのかがある。

・昔話における人物の評価は思ったことではなく、何をしたか。

・視点は話者の立ち位置。

・並びたてる種類には理由がある。

・現在求められる読解力は「情報へのアクセスと取り出し」「統合解釈」「熟考・評価」

・文章には伝達性と虚構性があり、どちらが強いかで説明的文章と物語文章に分けられる。

・文学とは、人間の真実や物事の本質を美として表現した言葉の芸術。だから文芸。

・声喩とはオノマトペ。音声で喩えるもの。

・比喩は比べて喩える。活喩は擬人法。活きているものを喩える。

・擬音語は普通、カタカナ表記。動物の声や音をあらわす。

・擬態語は普通、ひらがな表記。様子を表す。

・上記2つをひっくるめて、声喩。

・日本語は声喩が多い。

・学習用語は便利だから使うもの。必ずしも難しい言葉を使う必要はない。わかりやすく考えを共有するために使う。

・学習用語は覚えて、その先が大事。(これは特に印象に残った。)

・矛盾する2つの意味が統合されている、それが美。

・どこから見るかで世界は変わる。

・内の目と外の目。語り手が○○の内の目を通して、物語を見る(三人称限定視点のことだと思う)

・内の目で見ると同化体験。外の目で見ると異化体験。

・読者は両方ともを同時に体験している。共体験という。

・学習用語を知って、それをもとにより深い読みの力をつけることが大事。

・視点が変化することで、どんな効果が生まれるのか。

・ファンタジー世界の成立条件。視点人物の設定とディティールの積み上げ、そして二重性。

・小さな本当を積み上げて、大きな嘘をつく。

・私が物語に書きたいのは、事実ではなく、真実byあまんきみこ(女の子は蝶になったのか、と聞かれて)

ハリーポッター千と千尋の神隠しもファンタジー。

・ファンタジーは現実と非現実の二重性の上に成り立つのだと思う。

 

雑感:相当にマニアックだが、面白い。国語を専門にしたい人が文芸研で学ぶのはいいかも。

公開授業5

算数の割合導入。

 

小学校の算数で最大の難単元とも言われる「割合」。教科書通りの授業をしました。

 

シュートの本数を比べて、「成績の良いのは誰か?」を考える授業でした。

 

大きく分けて、差で比べる、分数化して通分して比べるというのが出ましたが、あーだこーだ言い合っているうちに時間切れ。

 

見てくださった方からは、前半の段階で、差で比べてはいけないことを押さえてしまうべきだったと言われました。その通りだったなと思いました。

 

これは言われなかったことですが、数字を分数化した意味や、通分した理由を子供たちが分かっていなかったことも問題でした。機械的に数字を動かしていただけのように感じたからです。

 

それにしても割合は難しいと感じました。明日からの授業で取り戻していきたいのですが、果たして…。

うちの男子は草食系か

休み時間のことでした。女子に、こてんぱんに言い負かされた、わりとやんちゃな男子が私のところに近寄ってきました。

A男「先生!このクラスは女子に支配されてます!!」

その男子が言う通り、我がクラスは女子が強いです。増長していると言った方がいいのかもしれませんが…。

なーんでこうなっちゃったのかなあー。


年賀状が届いて

子供からきた年賀状。

 

「今年も勉強や運動をがんばりましょう!」

 

うん…私ががんばるのか? そうかー。

 

毎年、1人は同じようなコメントを書いてきます。わりと、よく見かけるミスですね。

 

菅直人元総理への見方が変わる本

光村図書の小学5年生の国語教科書の中に、『想像力のスイッチを入れよう』という説明文があります。「文章は想像力を働かせながら読まないとダメだよ」という主張を、小学生にも分かるように書いた説明文です。

 

筆者は下村健一さん。その方はなんと、菅直人元首相の側近?の1人として内閣広報室で働いていたそうです。そのときの経験を朝日新書首相官邸で働いて初めてわかったこと』に書いています。

 

我々国民は首相官邸の中で何が起こっているのか分かりません。総理大臣がどのような気持ちで仕事に臨んでいるのか。そして、なぜ情報が国民にまで降りてこないのか誰もが不思議に思っていることでしょう。本書はそうした、我々が知らないブラックボックスと化した首相官邸の内部を、極めて平易な言葉で書いている良書と言えます。

 

特筆すべきは、「3.11」の際の菅元首相の行動や様子を書いた部分でしょう。

 

今もなお、国民の中で「3.11」時の菅元首相の行動に疑問を持っている人は多いと思います。しかし、本書を読むと、菅元首相はかなり、最善を尽くそうとされているのが分かります。何といっても、原発の情報がなかなか首相のところにあがってこなかったという話は、同情さえしてしまいます。

 

余談ですが、本書では、筆者が原発関係者を強く批判しています。ただ、私は先日、ブログで紹介した本とも絡まり、「情報の軽視」や「事なかれ主義」が相変わらず日本の組織には残っているのだと感じました。

 

本書を読む一番のメリットは、菅元首相の見方が変わるということです。筆者の悪戦苦闘ぶりや首相官邸の内部の様子を知る良さももちろんあります。しかし、我々国民があまりに低評価を下した菅元首相も、見方を変えれば、そう悪い宰相ではなかったのだと気付くのです。

 

人を評価するのは簡単なようで、実はとてつもなく難しいのだ。評価するには多方面からの見方や考え方が必要である。自分はマスメディアの言うことや当時の雰囲気に流されて、菅直人という人物を評価していなかったか。

 

今年であの「3.11」から5年。当時の首相や内閣を再評価するにも、優れた1冊と言えるでしょう。

首相官邸で働いて初めてわかったこと


半藤一利『昭和史1926-1945』

旅に出るとき、横には必ず本があります。旅先の名所めぐりも楽しいのですが、行く先々のカフェやホテルで本を読むのが至高の時間です。

 

今回、お供した本は半藤一利『昭和史1926-1945』(平凡社ライブラリー)。数年前に1回読み、我が家のとてもおもしろかった本コーナーに入れておいた一冊です。

 

昭和というと、学校でも詳しく習わないまま、よくわからない暗いイメージだけがついている時代ではないでしょうか。しかし、半藤氏の本書は非常に分かりやすく昭和という時代を解説しています。

 

半藤氏は『昭和史』を2つに分けて本にされました。当然、1945年が境です。その前半を今回、読みました。

 

昭和史の前半を簡単に述べるのならば、「いかにして日本は戦争を始めたのか」です。

 

日本にはドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニにあたる独裁者はいませんでした。昭和天皇は「君臨すれども統治せず」でした。むしろ天皇は戦争反対論者でさえありました。にも関わらず、なぜ日本は世界を相手に戦争を始めたのか。

 

本書を読むと、いくつかの要因が浮かび上がります(私見ですが)。

 

・国際的孤立

・情報の軽視

・軍部の暴走と暴力

・国民的熱狂

・誇大な慢心

・異論を認めない空気の醸成と空気を打ち破る勇気の欠如

・決断力を持った指導者の不在

・客観的、論理的な思考、最悪の事態の想定ができる人材の徹底的排除

 

現在の日本に置き換えて考えたときに、変わっていないなと思えるのは「情報の軽視」。怖いなと思えるのは「異論を認めない空気の醸成」です。今と1940年代が似ているとは思いません。ですが、日本があれよあれよという間に戦争に突き進んでいったことを忘れてしまうわけにもいきません。もしも仮に、日本のどこかで外国による大規模なテロが起きたら日本はどうするでしょうか。非常事態だということで、自衛隊をその国に派遣するのか。中国がいきなり尖閣諸島を軍隊の力で実行支配しようとしたらどうするのか。

 

半藤氏は最後にこうも語っています。

 

よく「歴史に学べ」といわれます。(中略)ただしそれは、私たちが「それを正しく、きちんと学べば」、という条件のもとです。その意志がなければ、歴史はほとんど何も語ってくれません。"

 

歴史を読み、整理しまとめ、考えて、学んだことを実行に移す。ここまでして初めて「歴史に学ぶ」と言えるのではないでしょうか。そして果たして自分は「歴史に学んでいるのか」。

 

2015年最後の1冊は、暗くて重く、しかし「日本の明日へ必読の一冊」でした。

 

 

昭和史1926-1945 (平凡社ライブラリー)

昭和史1926-1945 (平凡社ライブラリー)

 

 

 

 

東京研修12.26

2015年最後の研修に東京へ行ってきました。

 

参観したのは5年生の国語の授業。金子みすずの詩『犬』を教材とされました。教材の最後の1行を空欄として、その部分を考えるという授業でした。

 

参観していて思ったのは、授業で学ぶことを、最終的には子供たち自身が自力で掴み取っていく必要があるのだな、ということでした。

 

たとえば詩を読んで疑問をもてること。

 

「だりあ」とは何か。「クロ」とは何か。「話者」のイメージは? 

 

そして、作者が詩で工夫している表現はどんなことか。そして、その表現によって読者はどんな印象をもつのか。

 

このような事柄を、教師が問題として子供に提示するのが一般に考えられている授業です。しかし、それだけだと子供たちは国語を学ぶ意味を理解できないと思うのです。新しい教材に出会ったときに、なんとなく読むのではなく、授業で学習したことを生かして読んでいってほしい。つまり、今までより深い読みを自力でしていってほしいのです。

 

教師が提示した問題や課題をひたすらに解くだけでは、他の教材に出会ったときに、子供たちは学びへ動き出すことができません。

 

そんなことを考えていたら、協議会で、ある先生が「教師が問う前に、子供たちが自分の中で考えることが大事」とおっしゃっていました。また、「話者はどこにいるのか?という問題はどうか」とも述べており、すごくいい問題だなと感銘を受けました。話者の位置を尋ねることで、子供たちは思考を始めます。向山洋一氏の分析批評でもしばしば見られる問いです。「この詩を分析しなさい」と一言述べるだけで、子供たちが動き出す。1つの理想形ですね。

 

ただし、そこに至るまでには、やはり様々な詩を読む経験がないと無理です。本授業も子供たちがそこに向かう一里塚となったのでしょう。「対比」や「七五調」、「話者の想い」などを丁寧に押さえていったのはそのためなのだと思います。

 

私は授業をする際に、本時のねらいを考えます。しかし、本時だけで授業は完結しても、国語の学びは続きます。1年先、あるいはもっと先を見据えたときに、本時の学習の意味は何か。逆算して考えていく大切さを実感する授業でした。

 

冬休み中にも関わらず登校した子供たちと、年末のお忙しい中、授業を公開してくださった先生に、心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。