小学校教師クラメロンの日常

関西のみかんが有名な県に住んでいます。小学校教員。3.5.2.6.5異動1.4.特別支援学級.5.1という流れ。今年も生徒指導主任。

ふと気づくと

夏休みが終わります。残念でなりません。

 

1学期の振り返りをしたり、サークルの仲間と悩みを話したりしているうちに気付いたことがあります。

 

1学期、子供をあまり叱らなかったなということです。

 

基本は褒めたり、驚いたり、評価をしたり、認めたり。肯定的な対応が多かったように思います。

 

もちろん、叱ることがなかったわけではありません。トラブルは多々ありました。でも、そう悪い雰囲気のクラスではなかったように思います。

 

なぜかな?と思いました。

 

自分の腕が上がったから…などと思いあがるつもりはさらさらなく、最大の理由は「余裕があったから」だと思います。

 

なぜ余裕が生まれたかというと、現任校に来て2年目であるから、また学年の先生となんでも揃える必要がないからです。わりと自由です。学級通信も出せます。

 

「教師の自尊感情が高ければ高いほど、子供の自尊感情も高まる。」と聞いたことがあります。

 

この関係は単なる相関関係を表しているのかもしれませんが、私は結構、因果関係でも結ばれているなと思います。

 

褒めると叱るの割合は4:1ぐらいがちょうどいいと聞いたことがあります。子供たちの良い姿をたくさん見つけていきたいと思います。

 

 

うちのクラスの強みは何だ?

「結局のところ、うちの学校には強みがない。ストロングポイントがないんだよ。」

 

酒宴の席で先輩が私に熱く語ってきました。

 

「読書でも運動でも学力でも挨拶でもなんでもいいけれど、うちの学校はこれだけは負けない!というストロングポイントが欲しい。あれもこれもじゃだめなんだよ。」

 

その話を聞いて、それはそうだと思いながら、うちのクラスでも同じことは言えるなと思いました。

 

書く力を大切に夏休みまで過ごしてきました。しかし、書く力は学校でNO1と言えるかどうか。そして、そのことを子供たちが自覚できているのかどうか。

 

種まきで終わってしまったなあと反省しています。

目指すは70点の授業

最近思うのは、一生懸命に教材研究をして90点の授業をするよりも、毎時間コンスタントに70点の授業を続けることのほうが大切ではないかということです。

 

でも、これが本当に、本当にできない。難しい。

 

毎日、入念な準備はさすがにできません。

 

ポイントは時間の使い方と毎日の振り返りかなと思います。

 

教材研究をどんなに簡単でもすること。

毎時間を点数化して週案簿に記す。

 

このくらいかな。

 

やりすぎてはいけない。

 

大切なことは、簡単なことを続けること。

 

それともう1つ。70点の授業の定義を考えること。何を達したら70点なのか。

 

 

筑波大附属小の公開授業研

5年生国語、大造じいさんとガンの授業を見ました。

 

授業のゴールは主題の読み取り。そこに至る過程で

1クライマックスの検討

2大造じいさんのガンへの見方の変容を3.4場面で読む

の2点をされていました。

 

参観後、強く思ったことは、クライマックスの検討は泥沼にはまる恐れがあるということです。もっと言えば、授業のリスクが高い。

 

中心人物の心情の大きな変容点を見つける学習は、ともすれば這い回ることになりかねないという思いを強くしました。

 

 

大造じいさんとガンは特にそうだと思います。

 

A大造じいさんは何と思ったか~銃を下ろしました。

B大造じいさんは強く心を打たれて~。

 

の2つはそう簡単に議論が尽きません。

結果、曖昧なまま授業が閉じます。

 

もちろん、クライマックスの検討は、答えを1つに絞ることが狙いではなく、見当の過程で中心人物の気持ちがどう変わったのかを読み取ることが目標です。が、子供としてはすっきりと答えを知りたいでしょう。その「答え」に持っていくのが大変に難しい。

 

私が次に授業をするなら、あえて泥沼にはまりかねない、クライマックスの検討は行わないと思います。「残雪め」「ただの鳥に対しているような気がしない」「えらぶつ」など、残雪に対する呼称から、大造じいさんの残雪への見方の変容を捉えさせる授業をするかな、と。

 

それと、授業後、ある先生が質疑応答でおっしゃっていた言葉が強く印象に残りました。

「この授業では先生が子供たちに決めさせていた。子供たちが主体的に決めることはなかった。」

 

あー、自分の授業もそうだ、と思いました。

 

授業の最初は受動的でいいと思うのです。最初は先生に決めさせられてもいいと思うのです。ですが、中盤以降は子供たちが主導権を握る。そんな授業にしていきたいです。まさに、正木先生がおっしゃる「受動から能動へ」。

 

とはいえ、終始笑顔を絶やさず、穏やかに子供に接されていた先生の姿自体が私にとっての何よりの勉強でした。

 

定番教材は公開しにくいと思うのですが、あえて公開をしてくださり、多くの気付きを与えてくださった先生に深く感謝をしたいです。

 

 

ピアノ

私はピアノを習っています。

 

そろそろ半年がたちます。それまではからっきしでした。今でも小学校2~3年生レベルでしょう。

 

毎日、5分間だけ練習をします。それでも、練習をしないで寝てしまうこともあります。

 

練習不足のまま行ったピアノ教室での私の居心地の悪さたるや。

 

ぜんぜん弾けないのです。

 

先生への申し訳なさと自分の不甲斐なさと意思の弱さに包み込まれます。

 

そこではたと気付いたのです。

 

子どもたちも同じではないか、と。

 

宿題をやってこない子。いやいや、たとえ毎日頑張ってやってきても、勉強がいまいち分からない子。

 

つらいだろうな、と。

 

 

教師自身の習い事には価値がありますね。

教師の仕事の一丁目一番地は授業

と、いつも思っています。

 

ですが、実際はそうはなっていませんよねというお話です。

 

じゃあ、学校現場を見まわして、教師の仕事は何になっているかというと、これは校務分掌です。

 

特活主任や体育主任、研修主任、特別支援コーディネーター、学年主任、細かいもので言えば落し物担当やHP担当、学籍担当などなど様々で、一人に3つ4つ付いているのが基本です。放課後の仕事はこれらを片付けることから始まります。たいていの場合、会議が入っており、勤務時間後にこなすのですが。

 

では、授業の準備は?となると、これは本当に片手間となります。

 

TOSSランドを見ると、「明日の授業を5分で準備する」と銘打っていますが、「教師の仕事は授業である」のに、5分でいいの!?といつも思います。いえ、5分も準備をすればいい。実際は授業のチャイムが鳴り、その場で教科書を見て組み立てることも多々あるのです。

 

それができる教師もいます。憧れます。が、多くの人はできない。だから、本来ならば、放課後は授業と学級経営に関する仕事に充てるべきなのです。

 

ところが、現実はそうなっていないというところがおっかしいのです。

 

管理職や教育委員会は言います。

 

「教師の仕事は授業です。」

「授業で子供を育てましょう。」

 

ため息がつきます。

 

刀もなければ食料もない。鎧もない。それでも関ヶ原の合戦に行き、勝ってきなさいと言われているようなものです。

 

いかに、いかに校務分掌を簡略化できるか。ここにかかっていると強く思います。

 

どこまでを目指すのか

野中信行先生という方がいらっしゃいます。

 

初任者担当を何年も勤められた後、退職され、今でも全国各地を飛び回っておられる先生です。年に1回だけ、野口塾で先生の講座を受けています。

 

その先生がブログで次のように書いていました。

もし「ひとかどの授業」をしたいと願うならば、どのくらいのことをしなければならないのか。
  「ひとかどの授業」とは、1000人に1人ぐらいのレベルの人ができる授業をイメージしていただきたい。
 
 そのためには、毎日5時間の授業を意図的、計画的に進めなければならない。
 学校の1年間を200日とする。
 200×5=1000時間
 
 一つのレベルをマスターするには、1万時間が必要だと言われている。
 そのためには、どのくらい継続しなければならないか。
 1000×10年=10000時間
 毎日、5時間かけて、10年の歳月がかかる。

 

 野中信行先生のブログ「風にふかれて」より。

 

1000人に1人。

 

これ、とんでもない数字だな、と思ったんです。

 

現在、私の勤める学校には教員が約25人います。市には小学校が17校あり、本校は中規模校と呼ばれます。単純に17倍しましょう。425人です。

 

隣の市をも似たような人口ですので、まあ、だいたい同じくらいの教員がいると思います。

 

すると、足して850人。1000人弱。

 

つまり、自分の市と隣の市の中の教員のトップに立って初めて「ひとかどの授業」をする教員になるわけです。

 

これねえ、絶望的な数字ですよ。私はまだ若いです。志も目標も高く持つべきでしょう。しかし、1000人のトップ…。

 

無論、授業を他人と比べることが果たして意味のあることかという疑問があるのは分かります。そのうえで、この目標を自分が設定するのかということなんです。

 

授業が上手くなりたい。

 

そんな漠然とした思いではなく、自分は市の、県の教員の中で、どのくらい授業が上手い教員になりたいのか、という話なのです。実にシビアです。怖い目標です。