筑波大附属小の公開授業研

5年生国語、大造じいさんとガンの授業を見ました。

 

授業のゴールは主題の読み取り。そこに至る過程で

1クライマックスの検討

2大造じいさんのガンへの見方の変容を3.4場面で読む

の2点をされていました。

 

参観後、強く思ったことは、クライマックスの検討は泥沼にはまる恐れがあるということです。もっと言えば、授業のリスクが高い。

 

中心人物の心情の大きな変容点を見つける学習は、ともすれば這い回ることになりかねないという思いを強くしました。

 

 

大造じいさんとガンは特にそうだと思います。

 

A大造じいさんは何と思ったか~銃を下ろしました。

B大造じいさんは強く心を打たれて~。

 

の2つはそう簡単に議論が尽きません。

結果、曖昧なまま授業が閉じます。

 

もちろん、クライマックスの検討は、答えを1つに絞ることが狙いではなく、見当の過程で中心人物の気持ちがどう変わったのかを読み取ることが目標です。が、子供としてはすっきりと答えを知りたいでしょう。その「答え」に持っていくのが大変に難しい。

 

私が次に授業をするなら、あえて泥沼にはまりかねない、クライマックスの検討は行わないと思います。「残雪め」「ただの鳥に対しているような気がしない」「えらぶつ」など、残雪に対する呼称から、大造じいさんの残雪への見方の変容を捉えさせる授業をするかな、と。

 

それと、授業後、ある先生が質疑応答でおっしゃっていた言葉が強く印象に残りました。

「この授業では先生が子供たちに決めさせていた。子供たちが主体的に決めることはなかった。」

 

あー、自分の授業もそうだ、と思いました。

 

授業の最初は受動的でいいと思うのです。最初は先生に決めさせられてもいいと思うのです。ですが、中盤以降は子供たちが主導権を握る。そんな授業にしていきたいです。まさに、正木先生がおっしゃる「受動から能動へ」。

 

とはいえ、終始笑顔を絶やさず、穏やかに子供に接されていた先生の姿自体が私にとっての何よりの勉強でした。

 

定番教材は公開しにくいと思うのですが、あえて公開をしてくださり、多くの気付きを与えてくださった先生に深く感謝をしたいです。

 

 

ピアノ

私はピアノを習っています。

 

そろそろ半年がたちます。それまではからっきしでした。今でも小学校2~3年生レベルでしょう。

 

毎日、5分間だけ練習をします。それでも、練習をしないで寝てしまうこともあります。

 

練習不足のまま行ったピアノ教室での私の居心地の悪さたるや。

 

ぜんぜん弾けないのです。

 

先生への申し訳なさと自分の不甲斐なさと意思の弱さに包み込まれます。

 

そこではたと気付いたのです。

 

子どもたちも同じではないか、と。

 

宿題をやってこない子。いやいや、たとえ毎日頑張ってやってきても、勉強がいまいち分からない子。

 

つらいだろうな、と。

 

 

教師自身の習い事には価値がありますね。

教師の仕事の一丁目一番地は授業

と、いつも思っています。

 

ですが、実際はそうはなっていませんよねというお話です。

 

じゃあ、学校現場を見まわして、教師の仕事は何になっているかというと、これは校務分掌です。

 

特活主任や体育主任、研修主任、特別支援コーディネーター、学年主任、細かいもので言えば落し物担当やHP担当、学籍担当などなど様々で、一人に3つ4つ付いているのが基本です。放課後の仕事はこれらを片付けることから始まります。たいていの場合、会議が入っており、勤務時間後にこなすのですが。

 

では、授業の準備は?となると、これは本当に片手間となります。

 

TOSSランドを見ると、「明日の授業を5分で準備する」と銘打っていますが、「教師の仕事は授業である」のに、5分でいいの!?といつも思います。いえ、5分も準備をすればいい。実際は授業のチャイムが鳴り、その場で教科書を見て組み立てることも多々あるのです。

 

それができる教師もいます。憧れます。が、多くの人はできない。だから、本来ならば、放課後は授業と学級経営に関する仕事に充てるべきなのです。

 

ところが、現実はそうなっていないというところがおっかしいのです。

 

管理職や教育委員会は言います。

 

「教師の仕事は授業です。」

「授業で子供を育てましょう。」

 

ため息がつきます。

 

刀もなければ食料もない。鎧もない。それでも関ヶ原の合戦に行き、勝ってきなさいと言われているようなものです。

 

いかに、いかに校務分掌を簡略化できるか。ここにかかっていると強く思います。

 

どこまでを目指すのか

野中信行先生という方がいらっしゃいます。

 

初任者担当を何年も勤められた後、退職され、今でも全国各地を飛び回っておられる先生です。年に1回だけ、野口塾で先生の講座を受けています。

 

その先生がブログで次のように書いていました。

もし「ひとかどの授業」をしたいと願うならば、どのくらいのことをしなければならないのか。
  「ひとかどの授業」とは、1000人に1人ぐらいのレベルの人ができる授業をイメージしていただきたい。
 
 そのためには、毎日5時間の授業を意図的、計画的に進めなければならない。
 学校の1年間を200日とする。
 200×5=1000時間
 
 一つのレベルをマスターするには、1万時間が必要だと言われている。
 そのためには、どのくらい継続しなければならないか。
 1000×10年=10000時間
 毎日、5時間かけて、10年の歳月がかかる。

 

 野中信行先生のブログ「風にふかれて」より。

 

1000人に1人。

 

これ、とんでもない数字だな、と思ったんです。

 

現在、私の勤める学校には教員が約25人います。市には小学校が17校あり、本校は中規模校と呼ばれます。単純に17倍しましょう。425人です。

 

隣の市をも似たような人口ですので、まあ、だいたい同じくらいの教員がいると思います。

 

すると、足して850人。1000人弱。

 

つまり、自分の市と隣の市の中の教員のトップに立って初めて「ひとかどの授業」をする教員になるわけです。

 

これねえ、絶望的な数字ですよ。私はまだ若いです。志も目標も高く持つべきでしょう。しかし、1000人のトップ…。

 

無論、授業を他人と比べることが果たして意味のあることかという疑問があるのは分かります。そのうえで、この目標を自分が設定するのかということなんです。

 

授業が上手くなりたい。

 

そんな漠然とした思いではなく、自分は市の、県の教員の中で、どのくらい授業が上手い教員になりたいのか、という話なのです。実にシビアです。怖い目標です。

今年度出会った言葉の数々

今年度も無事に終えることができました。諸々の事務は残っていますが、昨日の修了式をもって、山は越えました。

 

さて、今年度も多くの言葉に出会い、それらの言葉に励まされてここまでやってこれました。心に残った珠玉の言葉の数々を紹介。なんというか、総集編的な日記。どこで出会ったか、誰が言ったかはメモをしていなかったので、気になったら調べてみてください。

 

・激励は誰にでもできる。しかし、激励し続けることは、親と教師にしかできない。

 

・伝わったことが、伝えたこと。

 

・十年偉大なり、二十年恐るべし、三十年歴史なる。(鍵山秀三郎氏)

 

・寝る子は育つ。書く子はもっと育つ。(近藤勝重氏)

 

・授業は学問の入り口である。

 

・幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せになる。

 

道聴塗説

 

・そしてあすはいつでもあたらしい 

 

・説明は遅れると、全て釈明となる。

 

・無事これ名馬

 

・口を閉ざして思い始まる。

 

・時間のゆとりは心のゆとり。

 

・失敗と書いて成長と読む。

 

・人が嫌がるようなことを積極的に引き受け、そのチャンスを死んでもやり切る人だけに、チャンスは再び訪れます。

 

雪に耐えて梅花麗し

 

・花に水やり、人に言葉がけ。

 

・教育とは、良き人生観の確立に尽きる。

 

・リーダーは憎まれても良いが、軽蔑だけはされてはならない。

 

などなど。気が向いたら、次回以降もやりまーす。

 

 

3つの口を言わないように

私はこの1年、職員室内で適用される自分ルールがあります。

 

それは、「3つの口を言わないこと」です。

 

1つ目は悪口。

 

2つ目はタメ口。

 

3つ目はそのまま、愚痴。

 

今の職員室の雰囲気は最悪です。なぜなら悪口が多いからです。主に校長先生に対してですが、それ以外にも同僚の先生についても陰でひそひそ言っています。雰囲気が良くなるはずがありません。ですが、若手の私が阻止できることでもないので、せめて自分は言わないようにと思いました。

 

2つ目のタメ口について。自分より年齢の低い先生がいます。ですが、その先生に対しても、敬語で接し、敬称も「~さん」ではなく、「~先生」でいこうと思い、過ごしてきました。我々は友達ではなく、どんなに相手が若かろうと社会人です。その人に対して敬意を示すのが礼儀かな、と。これには賛否がありそうですし、他の方から「~君」と呼ばれても私は一向構わないので、あくまで自分ルールです。よく考えてみたら、私は子供に対しても敬語だったので、自分に合うのでしょう。

 

最後は愚痴。愚痴・・・言いたくなることは山ほどありますよ。でも、それは職員室で言ってはいけないでしょう、と。どんなに辛く、嫌なことがあっても、胸にしまい、粛々と仕事をこなす。愚痴を言うなら別の場所で、限られた人に対してだけ。

 

以上、私なりのルールでした。

最低のねこ

毎日、『ルドルフとイッパイアッテナ』という本を読み聞かせしています。低学年の子供たちは、楽しそうに聴いてくれるので、こちらも嬉しくなります。その中の一節。

 

ちょっとできるようになると、それをつかって、できないやつをばかにするなんて、最低のねこのすることだ。教養のあるねこのやるこっちゃねえ。

 

読んだとき、声が少し止まってしまいました。

 

最近、私は学級経営が多少、安定してきました。問題は数あれど、それでも、まあ、一応何とかできるようになってきました。わりに勉強もしているほうだと思います。

 

でも、先の一節は、私に冷や水を浴びせました。

 

別のクラスを訪れたとき、子供の様子を見て「育っていないな。先生はどう感じているんだろう。」と思ったり、げた箱の様子や教室環境を見て、「汚いなあ、なんできれいにしないのかな。」と考えたり。

 

よくありません。非常に危険な思想だと思います。

 

たとえ私が、どんなに優れた教師になろうとも、周りのクラスや周りの先生を批判してはならないと思います。なぜなら、自分が悪く思われたり、言われたら悲しくなるからです。高慢な人間にだけはなりたくないのです。そもそも、勉強をするのは、他人を批判するためではありません。

 

残念ながら、私の学校には他の先生をバカにしたり、批判をしたりする人が何人かいます。確かに、そのような言葉を発する方々の学級は確かに優れています。授業も上手です。が、どんなにそれらの言葉の数々が正しくあろうとも、やはり口に出しては絶対にいけないと思います。学校の雰囲気が乱れます。「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていようとも、私は卵の側に付く」とは村上春樹氏の言葉ですが、深く首肯します。

 

批判や悪口の組織の行き着く先は、問題の隠蔽です。

 

これを知られたら、「ダメな教師」「力がない教師」と思われてしまうのではないか。そう考え始めたら最後、問題を1人で抱え込んでしまいます。

 

組織としては最悪の状態です。

 

風通しの良い組織とは、悪口を言える組織ではないと思います。どうしてもまずいのであれば、管理職がそっと告げれば良いのです。一般の教師同士は、激励や感謝、称賛の言葉を掛け合うほうがいいはず。

 

しかし、私はできていない。それどころか、天狗になっていたな、と。

 

D.カーネギーは『人を動かす』でこう述べています。

 

「手厳しい非難や詰問は、たいていの場合、なんの役にも立たない。」

 

 

ルドルフとイッパイアッテナ

ルドルフとイッパイアッテナ

 

 

 

人を動かす 文庫版

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