小学校教師クラメロンの日常

関西のみかんが有名な県に住んでいます。小学校教員。3.5.2.6.5異動1.4.特別支援学級.5.1という流れ。今年も生徒指導主任。

今年の目標

仕事における目標は授業につきます。

 

良い授業をすること。私の中の良い授業の定義は次の2つ。

 

1つは本時のねらいを達成していること。もう1つはどの子も満足していること。

 

良い授業を繰り返すことで学力の保障をしていくことが、教師の仕事だと思います。

 

そこから考えた今年の目標の1つは「全授業のうち、本時のねらい達成率70%」です。

 

授業の前に本時のねらいをたてますよね。10時間、授業をしたとしたら、そのうち7時間は「ねらいを達成した授業だった!」と言えるようにしたいというわけです。

 

1年間に数回程度の研究授業で素晴らしい授業をするよりも、そこそこのレベルを保ちながら日常の授業を積み重ねていく。そちらの方がきっと、子供の力は高まると思うから、上記の目標にしました。70%なのは、80%は高すぎるような気がしたからです。あまり高すぎない目標を掲げるのがモットーなのです…。

 

さて、考えなければいけないことは次の点。

 

ねらいを達成したかどうかの判断はどうするのか。

 

これが結構、難しい。研究授業後の協議会でも、「本時のねらいは達成されたのか。」は曖昧なままな気がします。それよりも、「子供たちがたくさん発言していた。」「目が輝いていた。」などといった情緒的な協議になりがちです。しかしそれでは次につながりにくいと思います。

 

関心意欲はどうやって測るのか…という評価の問題にもつながります。

 

やはり、具体的な子供の姿を見取る場面の設定を作ることが必要かなと思います。

 

授業の中のこの瞬間で、~な姿をしていればねらいに達成したと言える!とあらかじめ考えておくことが大事でしょう。いわゆる、細分化と個別評定の原則ですね。

 

それを毎時間行い、自分でチェックし続ける。確かな授業力をつけるには、こうした修業じみたことも必要だと思います。

 

目標をクリアするための具体的な手段として、

➀ノートを1冊用意し、左のページにねらいを5時間ないし6時間分書く。

②右ページに達成できたかどうかと自己分析を書く。

③サークルに持っていく。

④ねらいには手段と授業終了時の具体的な子供の姿を書く。(達成できたか判断できるように)

⑤ねらいは、その日の勤務開始時刻までに書く。

以上を毎日、例外なく続ける。

補足

(⑥単元ごとの振り返りも行う。)

(⑦学級通信にも書く。)

これらはできたらやってみたい手段。

 

 

インプットに+1してアウトプットする

この冬休みも、いくつか研修会に参加してきました。

 

その中で極めて心に残った言葉がありました。それが題名の

「インプットに+1してアウトプットする。」

です。

 

研修会というより、その後の懇親会の席で、講師とは別の先生がおっしゃっていた言葉です。しかし、なるほどー!!と膝を叩きました。

 

インプットは誰でもするわけです。そこから自分なりの解釈を加えて、しかも人に話したり書いたりしてアウトプットする。だから力が付くのだと思いました。

 

我々にとっての最大のアウトプットの機会は授業であり、学級経営です。

 

これらのアウトプットを通して、更により良い実践ができるように腕を磨いていきたいものです。

 

続けること

あるセミナーで言われた言葉が心に深く残っています。

 

「毎日続けたことだけが力になる。」

 

本当にその通りだと思います。

 

今年度、私のクラスで行っている「毎日続けていること」は次の3つです。

 

 

1つ目は5問テスト。2つ目は振り返り。3つ目は学級通信。

 

逆に言えばこの3つだけです。しかし、やはり継続は力なりだなと感じます。

 

この3つが私の今年のクラスの核となりました。他は捨てていたと言っても過言ではありません。が、それだからこそ良かったと思います。全てに手を出していたら、きっとどれも中途半端に終わっていたことでしょう。

 

やりたいことは無数にあります。きっと、来年度は毎日続けることをいくつか増やすでしょう。ですが、それでもやりたいことの全部をやり続けることは決してできないはずです。それで良いのだと思います。これと決めた数少ないことを徹底的に行う。例外を作らず、ひたすら毎日行い続ける。継続は力であることを教師が身を持って子供達に伝える。

 

今年の自分を振り返り、胸を張ることができることがあるとすれば、上の3つを続けたことだと思います。

 

続けること。

 

それがなにより大切だと思い、自信につながる2017年でした。今年度はまだおわっていません。最終日までやり続ける覚悟です。

空気を作る

別の学年の話です。

 

先生がよく言っている言葉です。

 

「空気を作りなさい。」

 

本に載っていたそうです。某先生の本でした。

 

非常に効果的な言葉だなと思います。

 

空気を作る。

 

空気を読むという言葉が流行したことがありますが、この「空気」という言葉はまるで魔法のようです。子供たちの中にもすっと入っている印象があります。

 

だからこそ怖いのです。

 

空気を作りなさいと言えば、子供たちはさっと「静か」になります。見事です。が、その「空気」に縛られた子供たちからは、果たして自由な発想は生まれるのでしょうか。むしろこの得体のしれない「空気」によって、今の日本人は苦しんでいるのではないでしょうか。その先生の声掛けは同調圧力とさえ感じます。

 

私は思います。

 

空気を作る人間を育てるよりも、空気を打ち破る人間を育てたい、と。

議論の収束のさせ方

教師1年目の頃から、ずっと引っかかっている問題です。

 

国語や社会、道徳の授業では、しばしば意見が分かれます。意見が分かれたとき、子供達は熱中します。自分の意見を、本文を基に述べたりグラフも基に説明したりします。議論になります。

 

問題はその先です。

 

どうやって収束をさせるのか。いつも悩んでしまいます。

 

いろいろな意見があったね。じゃあ今の考えを書いてみようと言って終わりにすることもあります。しかし、それで良いのか?

 

今日、筑波附小で社会科の研究会が開かれました。そこで出された課題は「10年後、天然・養殖・輸入のうち、生産量1位になるのはどれか?」でした。

 

思うに、これは論点が不明なのです。推測でしか語れません。だからそれぞれの子供がそれぞれの主張をしていましたが、その後の話し合いはうまくかみ合いませんでした。講師の先生が「この授業には説明はあったが、議論はなかった。」とおっしゃっていましたが、その通りだと思いました。ここに難しさがあるのでしょう。筑波の先生ですらそうなのです。

 

ではどうするのか。

 

2つのパターンがあるかなと思っています。

 

1つ目は、徹底的に議論・討論を続けて、最後に自分の意見をもう一度書くというものです。途中で教師が適宜介入して、意見を整理したり分類したりする必要があります。が、基本的には子供主体です。答えは出さなくても良い。多様な視点を得るために、議論することに価値があるというものですね。

 

もう1つは、議論後、教師が補助発問をつないでいき、ねらいとするところにたどり着く授業です。議論そのものは手段であり、目的ではありません。議論を通して出てきた意見を分類したり、価値づけたりしながら、上手に子供をねらいとするところに持っていく。私には至難の業ですが。

 

前者はモラルジレンマ的な授業でよく見られますね。サンデル教授のあれです。TOSSの人たちは討論の授業では全体解を出そうとしません。合意形成を図るのは討議だとか。

 

しかしですね、私はそのような前者のタイプの授業はありだと思いつつも、それでよいのかなとも思うわけです。全体で合意形成まではいかなくとも、納得解は見つけたい。ひとつの落としどころはほしい。

 

つまり、熱い話し合いを通して、本時のねらいに上手に迫りたいのです。

 

そのための道筋が、まだ見えません。

 

 

 

 

教師のチカラセミナー雑感

教師のチカラという雑誌があります。私が愛読している教育雑誌の1つです。骨太の実践が数多く載っていて、毎回とても勉強になります。

 

それを執筆をされている先生方のセミナーに行ってきました。

 

特に心に残った、勉強になったことを3つだけ記します。細かい学びは別の機会に。

 

➀ここから子供達の成長が加速する学級とそうでない学級の違いは、ささやかな場面に現れる。

 

この言葉が最も本セミナーの核心を突いていると思います。

 

どの先生方も突飛なことをおっしゃってはいませんでした。発言の数をやたらに競うのではありません。挙手の仕方はどうか、音読の仕方はどうか、感謝の姿はあるのか、指示の中身はどうか。どれも、本当に細かいことです。まさに神は細部に宿る。これら日常の一場面、一場面を限りなく大事にしていく、その積み重ねが加速につながるのだと思いました。

 

私の学級は下の下です。(子供達よ、ごめんなさい。)

 

②傍観者を作らない。

なぜ発言をしないのか。なぜ手を挙げないのか。簡単な誰でも答えられる発問への挙手率を100%にすること。子供は手抜きの天才。ちょっとの手抜きを許さないこと。

 

これができないのです! まあ、このくらいはいいか。怒りすぎてもいけないし。あんまりぎゅーぎゅーやってもな…。そんな気持ちになるのです、が!それではいけない。絶対にいけないのだという理由が分かったのが勉強でした。つまり、ちょっとの手抜きは傍観者を生むのです。傍観者が現れる学級では、いじめも発生するかもしれません。授業のほんの何気ない瞬間に、傍観者が現れるのだということが衝撃的でした。

 

③授業分析を3年間続ける。

学級通信で行うというものでした。3年間。これはやってみます。ブログでも紹介するかもしれません。

 

差し当たり、以上で。

討論の授業

「討論の授業は高段の芸」とは向山洋一氏の言葉です。

 

これまで、私は指名なし発表にも、討論の授業にもさして興味を持っていませんでした。一方で、挙手指名型の従来の授業方式に、大きな疑問を抱いていました。挙手指名型の授業の問題点はお客さんが出てしまうこと。言い換えれば、全員が発言をする機会を得られにくいということが最大の疑問点でした。

 

内言の外言化、つまり思ったことや考えたことを書いたり読んだり話したりして外に表現することを増やす授業は、子供達の学力を間違いなく高めると思います。今年の私の授業のテーマは「全員参加」。指名なし討論は全員参加を促すのではないか。そう考えて本年度の途中より始めました。

 

ちなみに、現在、小学5年生の担任をしています。6月上旬に地区の授業公開があり、そこでは従来型の授業を行いました。指名なし~のシステムを始めたのはそれ以降です。

 

初挑戦は家庭科の調理実習後でした。感想を言う時間を設けました。そこで初めて指名なし発表というものを行ってみました。今から考えると、よちよち歩きの赤ちゃんのような進み方でした。

 

それから3か月ほど。指名なし発表はかなりスムーズに行うことができるようになりました。声を出す指導、指名なし音読などの練習にも取り組んできましたし、討論の趣意説明も行いました。

 

しかし、指名なし討論は、指名なし発表の100倍くらい難しいと思います。討論はまだまだまだまだです。山のふもとで頂きすら見えていない状況です。さて、ではどんなところに今、私がつまずいているのか。それは次回、書きます。