学校は個人を育てるところ

1つ上の学年に、長縄に燃えているクラスがあります。

 

3分で400回、500回を目指しているそうです。

 

周りの、とりわけ若い先生方はそのクラスを凄いと言って尊敬しています。

 

私は、何か違うよな、という気がします。

 

ひとつのことに燃えるのは悪いことではありません。私も中学時代は合唱や部活動に、高校時代は文化祭に燃えました。クラスが、組織が一つにまとまる一体感は魅力的で、陶酔に浸れます。

 

言い換えれば、中学や高校で十分に体験できるということです。小学校段階で必要なのか、と思います。

 

もっと言えば、そのクラスは長縄を通して、どうなりたいんでしょうか。それが見えない。

 

長縄を通してクラスがひとつにまとまるのが目標と言うかもしれません。ですが、それは手段の目的化だと思います。クラスがひとつにまとまることは、目標ではありません。あくまで目標は、個人の成長であるべきです。そして個人の成長とは具体的に言えば、第一に学力の向上であるべきです。なぜなら学校は勉強する場だからです。

 

無論、人と人の関わりを学ぶ場でもあるし、全員で何かを成し遂げる大切さを知る場でもあります。しかし、そういったことは別に長縄でなくともよいのです。自然体験活動でも、縦割り活動でも、集団宿泊活動でも、なんでもよいのです。学校には、あまりあるほど集団で行動する、活動する場面がありながら、なぜ長縄に精を出すのか不明です。ただでさえ授業時数が短いのに。

 

そして、長縄に燃えているそのクラスは、見ていると授業時間にもしばしばグラウンドに出て長縄をやっています。これは本末転倒ではないでしょうか。

 

休み時間にもよく練習をしています。

 

いやいや、休み時間はめいめいが好きなように過ごすから休み時間なのです。いくらクラスで決めたからと言って、基本的に休み時間に何かを強制するというのは反対です。というより、集団の論理と言いますか、全員ですべての時間を共有しようというのが、気持ち悪いです。

 

まとめると、長縄を通じて、そのクラスの教師は、一人一人の子供にどんな力をつけたいのでしょうか。そして、なぜその力をつけたいのでしょうか。なぜ長縄でなければならないのでしょうか。

 

学校は集団で動いていますが、最終的には個人の自立を目指す場所だと思います。つまり、集団活動を通じて、育てるべきは個人なのです。いいクラスを作りたい。それは確かですが、それはあくまで手段。目的を誤ってはいけないでしょう。

 

シルバーウィーク明けの昨日も、そのクラスは必死になって長縄に取り組んでいました。

 

火の粉が私のところに飛んでこないように祈っています。