最近、「ダイバーシティ(多様性)」という言葉をよく聞きます。学校にいると「配慮」という言葉もよく聞きます。
どちらも「人は様々。だからこそ、自分とは異なる人のことをよく理解し、大切にしましょう」という意味につながるなと思います。
まあ、それはそうなんですが。
私はインクルーシブ教育自体を否定するつもりはありません。車いすに乗った子や外国にルーツを持つ子が学級にいること自体は、むしろいわゆる一般の子供にも良い影響を与えるでしょう。
しかし。
私は条件があると思います。それは「最低限、人がされて嫌なことをしないこと」です。
例えば軽度知的障害をもった子供がいます。授業中、学習内容が分からないから立ち歩いたり、奇声を出したりします。あるいはADHDの子。休み時間に廊下を走り回っていて、ある日別の子にぶつかって、けがをさせてしまいました。さらには養護施設に入っている子。人の物を盗ることが日常茶飯事で、隣の席の子の鉛筆や消しゴムを何度も勝手に使い、かわいいキーホルダーを見つけるとくすねてしまう。
このような子は、どの学校にも普通にいます。というより、最近の私の学級には毎年います。これまでは学校に、いたとしても1~2人だったのでしょうが、今の時代はどの学級にも「人がされて嫌なことをする子」はいます。それも何人も。
研究会などで出会う方々に聞いても、おそらく全国的にこのような傾向があるのではないかと推察します。私の学校が特別、飛びぬけている学校ではないのです。
さて、上記の例のような子供もインクルーシブ教育という名のもとに、通常学級の中で包括していくべきなのでしょうか。
イエスと答えるのなら、もしも自分の子供(定型発達)が、そのような子供と一緒にいたとしたらどうでしょう。
「いや、いろいろな子がいる中で生活する、それも勉強だ」と仰る方もいるかもしれません。確かに「勉強」です。しかし担任にしてはたまったものではありません。特別な支援を要する子を、ほとんどの担任は一人で対応しながら、他の子の指導もしなければいけないのです。
もしも保護者から「授業中、大声を出す子がいて、うちの子が困っているのですが」という電話があったらどうしますか? 学校としては打つ手はないのです。
一時代前は、体罰をしていた学校もあったでしょう。今はありえません。それどころか、ちょっと叱っただけでも「暴言」ととらえられてしまいます。(私の市では、3年前から保護者と子供を対象に、教師の言葉遣いアンケートをしています。体罰の有無を調べる体罰アンケートは10年以上前からしています。)
この状態で、誰が一番損をするのでしょうか。
私は「ちゃんとしている子」だと思います。
ちゃんと真面目に学校に来て、当番の仕事をして、授業を受けている子が、カオスのような場で勉強をしなければいけないのが現代日本の学校なのです。
どうすればいいのでしょうか?
自分の子供を公立の学校には入れたくなくなりますよね。都会ならば、私学の小学校や中高一貫校に子供を入れたくなります。しかし田舎では難しい。「世の中にはいろいろな人がいる。それを知るのも勉強」。そう自分を納得させるしかないでしょう。
学校としてできることは?
ありませんね。教師の授業力や学級経営力の向上はもちろん大事なのですが、そんな個人の力量を上げるだけでは対応が難しいことだと思います。確かに、一部の授業名人や学級経営の達人的な人もいます。しかしそんな全体からすれば数%の人たちを真似しても、他の一般の教員は自分の力量のなさに自信喪失するだけです。
私は、究極的には教師の権限を強めることしかないと思います。
一定の基準を設けて、出席停止措置や転校の手続きを学校サイドが行えるようにする。例えば、暴力行為を数回繰り返した児童生徒については、保護者を呼び、改善を促す。それでも変わらないようであれば、出席停止を積極的にする。…などなど
「北風と太陽」の寓話で言えば、今の学校は「太陽政策」をとり過ぎかなと思います。というより、本当は「北風政策」もしたいのでしょうが、世間が許さないのでしょう。苦しいですね。