小学校教師クラメロンの日常

関西のみかんが有名な県に住んでいます。小学校教員。3.5.2.6.5異動1.4.特別支援学級.5.1という流れ。今年も生徒指導主任。

公立は「お客」の質を選べない

先日、私立の小学校の研修会に行ってきました。授業を公開していました。その子供たちの落ち着いていることといったら!

 

その校長先生が語っていたことが印象に残っています。

 

「本校の子供たちはとても落ち着いていて、利発です。品格があり、生徒指導上の問題はほとんどありません。」

 

耳を疑いました。

 

校長先生は理由として、1学級20人ちょっとである点、小中高エスカレーターである点、駅からほど近い点、そして何といっても家庭の教育力の高さを挙げていらっしゃいました。

 

それを聞いて「やはり子供への影響で、教師や学校の力より、他の要素の方がはるかに大きいのだな」と思いました。

 

翌日、自分の学校に行ったとき、子供たちを目の前にして、再び愕然としたわけです。

 

言葉遣いと態度の乱暴なことといったら…自分の学校の子供たちですから、自分たちの指導の結果と言われればそれまでです。しかし、いや、それにしても…。

 

冬休み中、私立で教員をしている友人と話をしました。彼は「昨年度、受験(受検?)を担当したんだ。たしかに私立も経営難ではあるけれど、それでも『ちょっとこの子は…』という子は容赦なく落とすよ」と言っていました。

 

私立の質が保たれるのはなぜか。私は、経済力に裏打ちされた家庭の教育力と思っていました。が、それだけではないのだと気付きました。小学校といえども、受験による選抜があったからです。

 

さて、かたや公立小学校。

 

地域の子供たちはほぼ全員その小学校に来ます。確かに「お客さん」をわざわざ募集する必要はありません。公立の教員ならば、首になることもほぼないでしょう。そう考えれば、自動的に「お客さん」が来ることは、魅力的な面でもあります。

 

しかし最近は、特別な支援を要する子が増えているという話をよく聞きます。虐待を受けている子も多くいます。

 

社会全体の教育力が低下していると言われる現在、公立小学校が抱える問題はかつてよりも大きくなっていると思います。

 

「お客さん」の質を選べる私立と、選べない公立。

 

働くのならば、どちらにも良し悪しはあるのでしょうが…。正直、最近今後のキャリアに悩みます。

 

(余談。私立の小学校の数はここ20年間で微増しているそう。少子化にも関わらず。一定のニーズがあるということでしょう。)

「私立学校・学校法人データ集」https://www.mext.go.jp/content/20210830-mxt_sigakugy-000017709_5.pdf

 

…まあ、逆に子供も先生の質を選べないので、お互い様なのかもしれませんが。

小学1年生にも「言語化」をさせる

日本サッカー協会会長の田嶋幸三氏が書かれた『「言語技術」が日本のサッカーを変える』(光文社新書)。

 

 

この書籍の要旨を述べるのなら「日本人は物事を言語化することが苦手。サッカー界も同じ。言語技術を習得することで、日本のサッカーをレベルアップさせていきたい。」です。

 

そのため田嶋氏はJFAアカデミー福島を設立した際、子供たちの言語技術を高めるために三森ゆりか氏に講師を依頼されています。

 

田嶋氏は、言語技術の習得は学校でも必要と思っているようです。私も強く首肯します。

 

私は現在、小学校1年生の担任ですが、とにかく自分の考えを話させる練習を日々行っています。

 

例えば授業で、何か意見を言うときには、必ず理由を添えるように指導します。

 

1年生ならば、自分の意見に「なぜかというと」をくっつけるように徹底させます。好きな食べ物を言うときも「好きな食べ物はバナナです。なぜかというと甘くておいしいからです。」などというように。

 

1年生には「理由を言いましょう。」と伝えるよりも「なぜかというと…をつけましょう。」と指示した方が効果的です。理由という言葉自体がうまく伝わらない恐れがあるからです。それよりも、何か意見を言うときには枕詞のように「なぜかというと」をつけると、自然と理由を語り始めます。

 

かつて1年生を受け持ったときも、同様に「なぜかというと」を徹底して身に付けさせました。翌年、廊下の掲示物を見ると、私が受け持った子供たちは皆、ワークシートに「なぜかというと」をつけていました。1年生の1年間の擦り込みの偉大さを感じ入りました。

 

授業以外の時間も大事です。むしろ授業外の時間にこそ、言語化の育成が図られると思います。

 

分かりやすいのは忘れ物をしたときです。

 

よく子供たちは教師のところにやってきます。

 

「先生、教科書を忘れました。」

 

察しのいい優しい先生は

「ちゃんと言いに来て偉かったね。じゃあ、お隣の友達に見せてもらってね。」

と返します。

 

私はたとえ1年生であっても(この2月の時期ならば)、忘れた報告だけでは認めません。

というより、忘れ物自体を叱るのではないのです。忘れることは誰にでもあります。それよりも、忘れ物をした事実に加え、「ではその時間にどうするのか?」を言わせます。

 

例えば

「先生、教科書を忘れました。だから隣の人に見せてもらいます。」

などというように。

(まあ、たとえこの言葉であっても、「隣の人はOKしてくれたの?」と返しますが…)

 

休み時間中、転んで膝を擦りむいたときも同じです。

 

「先生、転んじゃいました。」

だけでは

「そっかあ。かわいそうに。大変だったね。」

で終わりです。

 

子供は助けてもらえると思って、きょとんとしていますが、何もしません。

 

「で、あなたはどうしたいの? 先生にどうしてほしいの?」

 

そう伝えるとようやく、はっと気づいて

 

「絆創膏が欲しいのでください。」

 

と子供は言います。

 

私は1年生の子供によく語ります。

 

「たとえ1年生であっても、君たちの人生は君たちのものです。自分が何をしたいのか、先生にどうしてほしいのかを言わなければ、先生は動きませんよ。」

 

田嶋氏が書籍で言うように、物分かりの良い先生になってはいけません。子供たちに常に言語化を促していくことが、言語技術を高める出発点だと思います。

特別支援を要する子はなぜ増えているのか?

文科省の調査によると、通常学級で特別な教育的支援を要する児童生徒の割合が8.8%いるそうです。令和4年の調査結果です。

 

前回の約10年前の調査では6.5%でした。この結果からみると、特別な支援を要する子供は増加していると言えます。ただ、これらの調査は教員のみを対象にしたものです。本当に全てがイコール支援を要する子かどうかは分かりません。

 

ただ、現場の人間としても「特別支援を要する子供は増えている」が実感です。

 

次に気になるのは「なぜ増えているのか?」です。

 

今回の記事では、私が考える「特別支援を要する子がなぜ増えているのか?」の答えを記します。

 

①社会的な認知の広がり

 

 最もよく言われることです。

 

 例えば発達障害という言葉をかつてよりも耳にすることが増えました。様々なメディアが特集を組んでいることが影響を与えていると思います。すると、「ひょっとしてうちの子も…?」と保護者が考えるきっかけになります。

 

 教員の世界でも同様です。

 

 特別支援教育という言葉を聞かないまま教壇に立つ教員は、今や皆無といっていいでしょう。研修会でも常にホットワードとして飛び交っています。

 

 言ってみれば、これまでよりも引っかかる網が広がったというわけです。

 

 同様のことは文科省の調査結果の中でも触れられています。

 

「教師や保護者の特別支援教育の関する理解が進み、今まで見過ごされてきた困難のある子供たちにより目を向けるようになったことが一つの理由として考えられる。」

(「通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する調査結果について」より引用

https://www.mext.go.jp/content/20230524-mext-tokubetu01-000026255_01.pdf

 

②家庭環境の変化

 

昭和は祖父母・両親・子供の三世代家庭が中心でした。

 

平成になると核家族化が進みましたが、父親が働き、母親は専業主婦というパターンが多かったように思います。しかし令和の今は共働き家庭は増えています。共働き家庭の増加については、厚生労働省が調査をしています。(https://www.mhlw.go.jp/stf/wp/hakusyo/kousei/20/backdata/1-1-3.html

 

このような家庭環境の変化は、子供にどんな影響を与えるのでしょうか?

 

 子供からしたら、関わってくれる大人の数が減ることは大きなインパクトです。投げ掛けられる言葉の数も減るでしょう。夫婦共働きということは、両親とも仕事で疲弊している可能性もあります。とすると子供を見る時間も体力も、かつてほど十分にはないかもしれません。そんな中で暮らしているわけですから、心の安定がない子供が増えるのも頷けます。安定しない=発達障害ではないでしょう。が、心が安定していないと、他の子に手を出すなど自己中心的な活動が増えてしまう恐れがあるでしょう。

 

 この「家庭環境の変化」は①の「社会的な認知の広がり」に匹敵する大きな影響力

をもっていると思います。

 

③高齢出産の増加

 

 高齢出産は増えているようです。不妊治療の保険適用も始まり(菅政権の功績の1つですね)、今後さらに高齢出産は進むことでしょう。

 

 が、高齢出産は子が染色体異常をもつ可能性が高まるようです。それがそのまま特別な支援を要する子供の増加につながるかと言われると、やはりイエスだろうと私は思います。

 

 この点については、かなりナイーブな問題ですので、あまり指摘する人がいません。しかし現場で働いていると、保護者が高齢の子供は大変な子が多い印象は受けます。特別支援学級の担任時、市内の支援学級の先生方と雑談をすると「支援学級の子の親御さんは年齢が高いことが多い」とよく述べていました。デリケートな問題なので、公的な場で話題になることはなく、あくまで雑談の中で出てくる話ですが。

 

 このように、「現場で働いている人にとっては常識だけれど、話題にすることはタブー視されていること」はわりとどの業界でもあることではないでしょうか。

 

 現場の人間からすると、高齢出産の増加は、特別な支援を要する子供の増加に一役買っていると思います。この点は高齢出産を手放しに礼賛するわけにはいかない理由のひとつです。

 

④学校の権力の低下

 

 かつて学校は子供を厳しく指導してきました。昭和の頃は体罰は当たり前。平成になり体罰こそ減りましたが子供を厳しく指導する傾向は続きました。それが令和になり、一気に変わったように思います。

 

 子供の人権を無視した一方的な叱責はもちろんダメです。しかし厳しい指導に対する社会や地域、保護者の目がかつてないほど激しくなってきた今、学校は子供を容易に叱ることができなくなっています。

 

 そうすると何が起こるのか。

 

 子供による授業中の離席や私語、他の子供への暴言や暴力行為などに対しても厳然と立ち向かえなくなるのです。

 

 学校はどうするのか。

 

 そこで頼りになるのが「特別支援」です。「ひょっとすると発達に何か特性があるのかもしれませんね。」と言って、保護者に子供の検査を促し、様々な外部機関(例えば医療機関)との連携を模索していくわけです。

 

 その結果、発達障害の診断が出る子も増えるでしょう。

 

 つまり、今までは教師の権力で押さえつけてきたものがなくなり、全て「特別支援」の対象として対応するようになったわけです。

 

⑤生活習慣の乱れ

 

 最近、「発達障害もどき」という言葉を聞くことが増えました。『「発達障害」と間違われる子どもたち』(成田奈緒子)を読むと、確かになーと頷くことが多くありました。「発達障害もどき」が増えた背景に、生活習慣の乱れがあるとされます。先の著者は、しっかりと早寝早起きをすることで「発達障害もどき」は改善されると言います。特に睡眠時間の確保が大事のようです。

 

 共働き家庭が増え、子供の就寝時刻が遅くなっていることは、看過できない問題と言えましょう。

 

他にも、デジタル機器(特にインターネットゲーム)との関係、食生活の乱れ、新型コロナウイルスの影響、体験活動の減少なども考えられます。

 

ただ、何か1つが原因というわけではなく、複合的なものだと思います。

特別支援児の保護者連絡は3点セットで

授業中、離席をする子、私語が止まらない子、友達に手が出てしまう子、人の話を全く聞かない子。学校には特別支援を要する子が何人もいます。

 

保護者への連絡が必要になることもあるでしょう。

 

その際には3点セットで伝えるといいと思います。

 

「事実」「本人の困り感」「具体的な手立て」の3点です。

 

1つ目。保護者連絡の一番の鉄則は、「事実」を伝えることです。

 

「今日、○○さんが授業中に隣の席の子の鉛筆を取ってしまいました。」

「休み時間に、○○さんが教室の中を走り回っていて、転んでしまいました。」

などなど。

 

ここで教師の主観を入れるのは得策ではありません。

 

しばしば「学校として困っている」ことを伝える方がいらっしゃいますが、私はどうなのかな?と思います。。

 

「○○さんが授業中に出歩いていて、正直、困っています。」と保護者に伝えても、「はあ、そうですか、すみません、家で言ってみます」で終了です。教師の溜飲は下がりますが、子供の改善は薄いでしょう。

 

また、安易に「特別支援学級」などという言葉を出してはいけません。関係がこじれるだけです。

 

とにかく「事実」を淡々と伝えることが第一です。

 

2つ目。「本人の困り感」を伝えること。

 

先にも書きましたが、「学校が困っている」「教師が大変」という言葉はいりません。確かに教師も学校も疲弊します。が、保護者に言ってもあまり意味はありません。

 

そうではなく「○○さんが困っている」ことを伝えるのです。

 

例えば「○○さんが授業中、おしゃべりを止められず、困っているようです」など。

 

そこで「(教師である)私も心配なんです」ぐらいは言っても良いと思います。

 

そうすると保護者は「この先生は、自分の子供のことを考えてくれている」となる(はず)でしょう。

 

大事なことは「教師の困り感」ではなく、「その子の困り感」を伝えることです。

 

3つ目。「具体的な手立て」を伝えましょう。

 

上記の2つだけでも、悪くはないのですが、「じゃあ、結局学校ではどうするの?」がほしいところです。

 

そうすると提案型の連絡になって、保護者としても学校に「お願いします」と返答しやすくなるでしょう。学校としても、「言うべきことは言った」「やるべきことはやっている」というアピールになります。

 

例えば授業中の多動がおさまらない子がいたとしましょう。

事実と本人の困り感を伝えた後、次のように言ってみるのです。

 

「ひょっとしたら椅子が○○さんに合っていないのかもしれません。低反発のクッションやバランスボールに替えてみようと思うのですが、よろしいでしょうか?」

など。

 

手立てを示すこと、それが3つ目にポイントです。

 

というわけで、特別支援を要する子の保護者への連絡は「事実」「本人の困り感」「具体的な手立て」の3点を意識しようという話でした。

「映像の世紀」が超おもしろい

最近の私の趣味が、録画をしておいた「映像の世紀 バタフライエフェクト」を見ることです。

 

映像の世紀」はもともと90年代にNHKで放送されたシリーズ。20世紀を「映像の世紀」と呼び、様々な歴史の事象を映像と共に振り返る作品でした。

 

元祖ともいえる「映像の世紀」の出来は素晴らしく、今でも根強いファンがいます。私もその一人です。

 

その後2010年代に「新映像の世紀」が作られ、さらには「映像の世紀プレミアム」、そして今の「映像の世紀 バタフライエフェクト」につながります。

 

どれも傑作です。

 

今放送されている「バタフライエフェクト」のよさは、45分間で構成されているところ。毎朝、出勤前に1本ずつ見ています。

 

最近見た中でおすすめなのが「ふたつの超大国 米中の百年」。国に翻弄される一人の天才科学者を中心に据えた良質のドラマのようでした。

 

バタフライエフェクト」の特長の1つは、伏線回収だと思います。だいたいどの放送でも、最後のシーンに「ここでこれが来ましたか。」という場面が登場します。番組を作っている方々の構成の見事さにも舌を巻きます。

 

映像の世紀」、おすすめです。

心と体を壊さないことが一番大事

教員の精神疾患による休職が過去最多を更新したそうです。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231222/k10014295991000.html

 

最近、働いて思うことは「心と体を壊さないことが何より大事」ということです。

 

教師は感情労働です。肉体労働は体を休めれば疲れが取れますし、頭脳労働はリラックスすることで脳が休まります。しかし感情労働はなかなか気が休まりません。家に帰っても仕事のことを考えている人もいるでしょう。

 

だからこそ「ほどほどに頑張る」大切さを強調したいです。

 

例えば私の場合、今年の学級があまり良い状態ではありません。

 

大変な子供が何人もいる学級です。がちゃがちゃしています。その状況を何とかせねば!と肩ひじ張って苦労する方もいらっしゃるでしょう。しかし。

 

身を粉にして働いて、その結果、心や体を壊してしまったとしたら、誰が一番困るのでしょうか?

 

もちろん自分と家族です。しかし同じくらい困るのが、子供と学校です。

 

担任がいなくなることの衝撃は、おそらく子供にとっては極めて大きいでしょう。

 

そう考えれば、何とか1年を凌ぐことを目指すのも手だと思います。

 

それは、ベストでもなければベターでもないのかもしれません。しかし最悪を避けることこそ大事です。

 

と、ここまでで終わっても良かったのですが、もう1つ。

 

ときどき、次のように言う人がいます。

 

「子どもが悪い、保護者が悪い、地域が悪いと、誰かのせいにする教員が多い。そうやって責任転嫁をするのではなく、自分自身に矢印を向けて、自分の指導のどこがいけないのかを反省することが必要。」

 

少し前まで、自分もこの考え方に賛成していました。今も、まあ、そうかなと思います。

 

しかし、この一見「正しい」考え方は、1つ間違えれば真面目な先生を精神的に追い詰めることになります。

 

大変な子どもやモンスターペアレントを受け持ったとき、それでも「自分が悪いんだ」と思う先生がいたとしたら?

 

先ほどの「正しい」意見は、正しいがゆえに「凶器」になると思います。

 

ですから今の私は「子どもが大変、保護者が大変、地域が大変というのは間違いなくある。自分の指導を見直す1つのチャンスとして捉えよう。」ぐらいのスタンスです。

 

ほどほどでいいのです。

 

素晴らしい授業をしなくても、他を圧倒するような学級経営ができなくてもいいのです。心と体を第一にして、子供たちと「そこにいる」だけで良いのです。60点主義。そんな気構えで行きましょう。

1つの説教では1つのメッセージを

パワーポイントでは、1枚のスライドにいくつものメッセージを入れてはいけません。1枚のスライドには1つのメッセージだけを入れましょう。

 

かつて私はそう指導を受けました。

 

教師をしていると、子供たちにお説教をする機会があります。そのときも1つの説教でいくつものメッセージを入れてはいけないなと思います。1つの説教では1つのメッセージだけを伝えましょう。

 

例えば授業中に私語をしてはいけないという話をするのであれば、そのことのみを話すのです。

 

しかし、1つの説教の中にいくつものメッセージを入れて話す人もいます。

 

授業中に私語をしてはいけないという話をしているのに、途中から「ロッカーの中が整理されていない」「廊下を走っている子がいる」「人の話をよそ見しながら聞いている子がいる」などなど、関係のないことに内容が飛んでしまう人がいます。

 

これでは説教を聞いている人も「この人は何を言いたいのだろう?」と思ってしまいます。説教を聞き終わった後も「結局、何をどうすればいいんだろう?」となってしまいます。

 

それではもったいありません。

 

説教をするのであれば、何に絞って話をするのかを明確にしてから話し始めましょう。

 

というわけで、1つの説教では1つのメッセージをという記事でした。