研修の秋です。本校の学年部も再来週に行われる研究授業に向けて頑張っております。同じ学年部の中堅の先生が授業をしてくださいます。
研究授業のためには指導案が必要です。そして、指導案を検討する指導案検討の時間が設けられます。
私はこの指導案検討が嫌で嫌で仕方ないのです。
誤解を招きかねない表現でしたね。数回の指導案検討は必須だと思います。ですが、6月に始まった指導案検討はこれまでに10回以上しています。その都度、指導案を書き直す先生のご苦労は、いかばかりでしょう。いくらなんでも、やりすぎです。
私も去年、学年の代表で研究授業をしました。国語の説明文でした。
たぶん10回以上、指導案を直したと思います。連日、帰宅が10時を過ぎました。
学年の先生方にやっとOKを頂いたときに思ったのは、「ようやく終わった」でした。指導案を作り終わり、「さあ、授業をがんばるぞ」ではなかったのです。もはや、自分の提案したかったことなど、影も形もありませんでした。青二才の主張など必要ないということでしょうか。
もちろん、指導案の検討は重要です。ですが、最も大切なのは、授業者の想いではないでしょうか。何人もの人が何十時間もかけて議論しあい、納得したものは、最大公約数的なものでしかなく、無難な、主張性もない、言わばありきたりでつまらない授業になってはいないでしょうか。正直言って、今年、授業をされる先生には申し訳ないのですが、研究を重ねるにつれて、魅力的な授業に思えなくなってきました。もともと、その先生がされたかった尖った主張はなりを潜め、一般的にどこでも見られる実践になりそうです。去年、授業をやる前から満身創痍だった私の横で、やり切ったという表情をしていた学年主任の先生の顔を思い出します。まだ授業は始まってもいなかったのに。
もっと言えば、1000時間ある、年間の授業時数のうち、研究授業はたったの1時間です。その1時間のために、貴重な何十時間が失われ、授業者の先生はさらにその何倍の時間が指導案作りに使われているのです。大切なのは、1000時間のうち、ほとんどを占める日常授業ではないでしょうか。
明日もまた指導案検討です。なんだか違うよなーと思いながらも、授業者の先生のため、自分の授業力向上のため、何より、組織の一員として頑張ります。