小学校教師クラメロンの日常

関西のみかんが有名な県に住んでいます。小学校教員。3.5.2.6.5異動1.4.特別支援学級.5.1という流れ。今年も生徒指導主任。

教師として、あなたは誰に好かれたい?

教師は職場で、主に次の3者と付き合います。

 

1 子供

2 保護者

3 教職員(教師+事務やサポート員などの職員の総称)

 

この3種類の人たちのうち、あなたが教師として、好かれたいのは誰ですか?

 

「そんなの子供に決まっているじゃん!」

と言う人もいれば、

「全員から好かれたいよ!」

と答える人もいるでしょう。あるいは

「誰からも好かれなくて構わない。好かれるために仕事をしているわけではない。」

と勇ましい答えの人もいるでしょう。

 

では、自分がもし10点を持っているとして、子供・保護者・教職員の誰にどのくらい好かれたいか?をあえて重み分けするとしたら、どうなりますか?

 

例えば、

「子供にたくさん好かれたい。でも保護者はそうでもないなあ。教職員からは好かれたいな、一緒に過ごしている仲間だし。」

と言う人は、「子供4・保護者2・教職員4」になるでしょうか。

 

もっと尖った人で、

「自分は子供にさえ好かれればいい。あとはどうでもいい!」

と言う人は、「子供9・保護者1・教職員0」でしょうか。

 

考えてみると、結構面白いですよ。

 

自分は誰を向いて仕事をしているのかを考えることができます。

サイレント・マジョリティを大切に

「物言わぬ多数派」と略される「サイレント・マジョリティ」。

 

しばしば学級を組織する上で、2・6・2の法則(パレートの法則)が語られます。中間層を味方につけよ。つまりは「問題をそれほど起こさないけれど、真面目に頑張っている子供たちを大事にせよ」ということです。

 

反対に、数はごく少数なのだけれど、学級を「乱す」存在を「ノイジー・マイノリティ」と言います。「ノイジー(noisy)」はたくさんいるように思いますが、「やかましい」からそう感じるだけで、実際は「マイノリティ」だということ。

 

これは学級だけでなく、学校全体にも当てはまります。

 

一番考えられるのが、保護者や地域の方々ですね。

 

先日、保護者から次のようなクレームが入りました。結構強い口調でした。

 

「近所の公園で、小学生が非常にうるさい。昼間に休んでいる人もいるのだから何とかしてほしい。その小学生は、なんと(禁止されているらしい)サッカーまでしている。一度見に来てほしい。名前も分かっているから指導もしてほしい。」

 

生徒指導主任ですので、管理職と相談の上、対応をしました。穏便に話を聞き、私が翌日公園に行きました。関係する児童(3年生)も集めて指導。その後、保護者に対応と指導結果を電話で報告しました。

 

児童への指導の間、私は自分の学級を自習体制にして(別の教員が入ってくれましたが、プリント学習)聞き取り調査を担任と一緒にしました。休み時間だけでは終わらなかったのです。

 

お読みの方は御存知だと思いますが、放課後の出来事に関して、学校には一切の責任はありません。それでも、公園に出向き、自分の学級を犠牲にして指導をしたのです。地域で起こる小学生のトラブルは学校が解決するべき問題とお考えの方は、モンスターと呼ぶにふさわしいでしょう。

 

さて、この方は地域の「多数派」なのでしょうか。

 

後で聞くところによると、その保護者はこれまでも学校に対していろいろなことを言ってきた「要注意」な保護者としてあがってきていたようです。つまり「ノイジー」な人なわけです。

 

そんな「ノイジー」にも対応をしなければいけないのが学校の辛いところ。まあ、確かに、学校はいろいろとボランティアを頼んだり、PTA活動をお願いしたりすることもあるから、目をつぶって対応をしたわけです。

 

別に「サイレント・マジョリティ」は困っていないのでは?と思うかもしれませんが、そんなことはありません。

 

まず、私の学級の子供たちは自習体制になったため、犠牲になりました。また、事件を起こした学級の担任の先生も同じです。さらに、この時間に巻き込まれて時間を費やさざるをえなかった管理職も被害者でしょう。もっと言えば、そもそも昼間に公園で騒ごうが、それは大きな問題なのか?という点で言えば、私は違うと思います。今回の件は、指導を受けた子供たち経由で、「その公園で遊ぶと面倒なことになる。」と伝わるでしょう。そう考えると、公園で遊ぶ小学生自体が被害者かもしれません。

 

では、今回の「ノイジー・マイノリティ」にどう対応すればよかったのでしょうか。

 

基本的な対応としては仕方なかったと思います。そう対決するべき問題でもありませんでしたし。ただ、やんわりとでも「放課後のトラブルは学校が対応できない場合もあるんですよ。」と言うぐらいは必要だったかもしれません。そうしないと、こういう「ノイジー」な人たちは永遠に言ってくるので。

 

それにしても、こういう「ノイジー」で非常識な人たちはどうすれば良いのでしょうね。我々の貴重な勤務時間は、こういうモンスターへの対応でなくなっていくのです。

 

正直、教師やってられないよね

正直、萎えたな~という経験をしたので記しておきます。

 

ある保護者から次のような要望がきました。

 

「我が子が友達とけんかをしたり、転んでけがをしたり、忘れ物をしたりしたら、必ず連絡をください。」

 

…もうねえ、無理です。

 

確かに、過度なけんかや首より上のけが、尿検査のような必要不可欠な忘れ物をしたときは連絡を入れます。でも、それ以外の日はたいていスルーです。

 

音読カードや体温チェックカードにちゃちゃっと書く場合もありますが、忙しくて忘れてしまうことも多々あるわけで。

 

30人の子供たちの保護者はそれぞれ

「1つぐらい、要望してもいいよね」

と思うのでしょうが、担任からすれば30もの要望がくるわけです。

 

で、その要望が年々エスカレートしているように思います。

 

いいですか。教員の最大の仕事は、集団に対する授業です。個別最適化うんちゃらが最近やたらと叫ばれていますが、通常学級の場合、1人で30人も見るわけです。その中で授業以外に掃除、給食、係活動、登下校指導、朝や帰りの会、休み時間のトラブル対応などを子供がいる時間に行い、放課後は会議・会議・研修・会議と続くのです。

 

悲しいかな、保護者からの様々な要望に

「それは無理です。」

と言えないのが教員の世界。公教育とはそういうものかもしれません。泣いたら電話。けがをしても、とにかく電話。忘れ物をしたら教師が貸し出しして、付箋に書いて連絡。特別支援学級判定が出ている子も受け入れ、登下校でトラブルが起こったら現場に行って(なぜか)担任が謝り、外国籍の子供の書類は英語に翻訳して渡す…。きりがないったらありゃあしない。

 

教師の仕事は果てがありませんね。

 

正直、自分はこの先、この職をやっていけるのかなと最近、非常に不安です。

2021年度(令和3年度)の振り返り

教師の大みそかは3月31日だとどこかで聞いたことがあります。

 

今の時期にすべきことは何と言っても「今年度の振り返り」でしょう。私はそれを、次の4つの点から考えています。

①学級経営

 最大の成果は大きな問題がなかったことでしょうか。

 えっ、そんなの普通じゃないの?と思われがちですが、私は大過なく1年を終えることができれば、それで合格点をあげられるなと思っています。「無事これ名馬」という言葉もあるくらいですからね。

 

 逆に残念だったことは、テーマがなかったことでしょうね。目標がいまいちなかったとも言えますが。「自治的な学級」を一応口には出しましたが、どうだったのかというと微妙です。例えば問題が起こったときに、「先生、給食の準備が時間がかかって困るので、学級会を開かせてください。」と言い出す子が現れ、実際に話合いをして解決につながっていくとなったら合格なのかなと思いますが、ここまでには至りませんでした。

 

②授業

 最大の成果はテストの平均点が過去類を見ないほど高かったことでしょう。県一斉の統一テストでもその成果があらわれました。なぜか? それは「考えさせる授業と教える授業を明確に分けた」ことが理由だと思います。教える授業のときは、テンポよく時間をかけずに知識と技能の習得をねらいました。そこで生み出された余剰の時間を、考えさせる授業に使ったのです。さらに算数なら、まとめの時数を指導書に書かれている時数+1時間とったことも良かったと思います。

 

 逆に課題なのは、こちらも年間を通じて、最後に取り組みたい授業像が不明確だったことです。2月の段階で全ての教科の全ての単元は終了していましたが、どこか自分の中で消化不良感が残ったのは、目標を達成したという思いがなかったからでしょう。「この教科は力を入れる!」的なこともしなかったのも良くなかったと思います。小学校は全教科を教えますが、その中でも1~2に絞って研究をすることは、結果的に自分の成長を確かめる石碑のような存在になるでしょう。

 

③校務分掌

 生徒指導主任2年目。かなり仕事の内容が分かってきました。

 最大の成果は、校内の生徒指導事案を組織的に対応できるようになってきたことでしょう。小学校の生徒指導は、学年内で対応が難しかった場合、即教頭&校長にいきます。中学校の場合はいったん生徒指導主事が入ります。最終的に責任を負うのは校長ですから、別に小学校の方式でも問題がなさそうですが、私はここは中学校に学ぶべきと思っています。安易に教頭や校長のところに行く前に生徒指導担当を毎回通過させる方が、問題が集約されやすくなります。なぜなら管理職は生徒指導案件以外にもたくさんの業務があるからです。

 本校は、いったん生徒指導主任につなぐというシステムが出来上がってきた点が良いです。

 

 来年度の課題となるのは、問題への対応法をもっと学ぶことでしょうね。残念ながら、学年からあがってきた生徒指導事案を私が聞いて解決に導けた件数はほとんどありませんでした。だから私にできたことは、担任や学年の先生方に寄り添うことぐらいでした。まあ、それも悪くはないのですが、力不足は否めません。

 

④今年度のテーマ

割愛(あまり詳しく書くと身バレしそうなので)

 

では次年度に向けて、今すべきことは何でしょうか?

 

まずは先に挙げた4つの観点についての目標を決めることです。ただしその年代の目標も定めた上で、です。例えば20代なら20代で達成したい目標を決めてから、次年度の目標を考えていったほうがいいということです。その後に、次年度の学年に関する書籍を読み集めることをおすすめします。それらについてはまたいずれ。

特別支援学級担任は学校のエースがするべき

数日前、次のニュースが流れました。

news.yahoo.co.jp

記事では、新規採用10年目までの教員が、特別支援学級の担任等を2年以上経験するのが望ましいと言われています。その理由として、特別支援学級在籍の児童生徒が急増しているのに、教員の育成が進んでいないからというもの。

 

私はこの制度には反対です。

 

理由を教員の視点から、そして児童保護者の視点から述べます。

 

自分は採用4年目に特別支援学級の担任になりました。その経験は確かに今(通常学級担任)に生きています。ですが、失ったものも大きかったように思います。

 

そもそも学校現場の人たちは、通常学級の担任になりたくて教師になったはず。だから教員希望の大学生で、特別支援学級の担任になることを想定している人は多くないし、キャリアのほとんどが特別支援学級の担任…なんて全くといっていいほど考えていないでしょう。若手の教員にしても、数年間、特別支援学級の担任をしていても、いずれは通常学級の担任に戻りたいor戻る予定という人が大半でしょう。

 

そう考えたとき、次の点は大きな意味をもちます。それは「通常学級の担任に求められるスキルと特別支援学級の担任に求められるスキルは全く異なる」ということ。

 

通常学級の担任は30人~40人の子供たちをまとめあげる「統率力」が必要不可欠です。この力がない人は、あっという間に学級崩壊します。もちろん一人一人とつながる力、いってみれば横糸をつむぐ力も大事なのですが、正直言ってこちらは通常学級の担任をしながらでもある程度は身につきます。これまでの優れた先達たちは通常学級の担任しかやっていなくても、素晴らしい個別対応をしてきたわけですから。

 

一方で特別支援学級は多くて8人。全体をまとめあげるのではなく、それぞれの発達の特性に応じて手立てを変えるという「個への対応力」が求められます。

 

どちらも大事です。どちらも奥は深いです。しかし若いうちに身に付けるべきなのは、間違いなく「統率力」、つまり全体をまとめあげる力の方です。なぜなら、「個への対応力」がいささか問題ありでも、崩壊まではいかないからです。だから、いわゆる「崩壊させがちな先生」は特別支援学級の担任になるケースが多いのです。例えるならば、通常学級の担任をするならば、「統率力」はそれがないと生きていけないというスキルで、「個への対応力」はもっているとより一層素晴らしいよというスキルです。

 

ここで大事なのが「通常学級の担任をするならば」という点です。

 

多くの教員は特別支援学級の担任をしたとしても2年間程度で元に戻る、つまり通常学級の担任になることを考えます。そのときに「個への対応力」がある程度身についた一方で、「統率力」が数年間で失われたとしたら? 結構しんどいことになりませんかね?

 

とりわけ採用後最初の10年間は貴重です。ここで徹底的に「統率力」を磨いたのち、「個への対応力」を高めるために特別支援学級の担任をするなら分かります。しかし、「統率力」を中途半端に学んだ人を特別支援学級の担任に据えると、何もかも中途半端な人を育てることにつながりかねません。

 

これが教師側から見た反対理由です。

 

今度は児童保護者側から考えてみましょう。

 

これは簡単です。教員の育成のために、大事な子供保護者の教育を犠牲にするなと。

以上終了です。

 

ですので私は制度案とは逆に、特別支援学級の担任は学校のエース教師がなるべきだと言いたいです。

 

通常学級でエースだった教師は、必ず個への対応力も優れています。でなければ、そこそこできる教師止まりです。エース級教師と準エース教師の違いは、30人以上子供がいる中でも、大変な子供への手立てが厚い(熱い)かどうかです。ゆえに、特別支援学級の担任を任せても優れた結果を出すでしょう。

 

問題は、そういったエース級を特別支援学級の担任に据えるだけの気概が校長にあるかどうかです。

 

私は常々思っているのですが、「特別支援学級はその学校の中心であるべき」です。支援学級に在籍する子供は、言ってみれば「弱者」です。その彼ら彼女らが大切にされる学校が悪い学校のはずがないでしょう。だから職員室の隣の教室が特別支援学級であったり、職員名簿の一番上に特別支援学級の担任が載っていたり、管理職が必ず毎日支援学級を覗いたりする学校は良い学校だと思います。そんな特別支援学級の担任に、その学校の顔を配置すれば、学校の職員の見方がまず変わります。さらに、日陰にされがちな特別支援学級の担任の発言が全体に影響を及ぼします。

 

ただ、そうすると、今度は通常学級が崩れる恐れがあります。エースがいなくなるわけですからね。ここで天秤にかけられるわけです。ほとんど全ての校長は、エース級教師を通常学級に据えるでしょう。なぜならば、多少特別支援学級が崩れても、学校全体に影響を与えることはないからです。逆に通常学級が1クラスでも崩れたら、結構大変なことになります。ここは多くの先生方がうなずくところだと思います。

 

かくして、いつまでたっても、特別支援学級は若手or通常学級をもてない先生の巣窟になるわけです。

 

であるならば、そもそも採用の枠を変えるべきだとも思います。

 

つまり、通常学級の担任を主にする採用枠と、特別支援学級の担任を主にする採用枠で分けるのです。

 

そうすれば、「なんで自分が特別支援学級なんだ!!」と怒り出す教員(ときどきいる)もいなくなりますし、特別支援学級に誇りをもって仕事に取り組む教員も増えるでしょう。時々、相互交流があっても良いでしょうが、基本は住み分けをするのです。

 

最後に。

既存のシステムで何とかしようとしたり、とりあえず「若手を育成」と言っておけばいいやぐらいの考えしか検討会議の面々は思っていないのでしょう。現場の苛烈さをあまり考えてないなと思います。

 

 

 

 

 

 

やっぱり「総合」は、やめたい

数年前、このブログで「もう総合はやめよう」という主張をした記憶があります。数年間教師をやってきて、この主張は全く変わりません。むしろ思いを強くしてきました。

 

総合とは「総合的な学習の時間」のことです。週に2時間、学校や学年学級ごとに決めた探求的な学習に取り組む時間です。この学習に積極的に取り組んでいる学校は学力が高い傾向があるという新聞記事をどこかで読んだ記憶もあります。

 

が、御存知の通り、学校現場はブラック化しており、どうにかこうにか減らせるものはないかと探す毎日です。

 

私はとにかくこの「総合」を減らすべきだと本当に常々思います。

 

大変なんですね、総合は。準備が。

 

一応例年の流れというものはありますが、それをなぞっているだけで、いったいどこが探求なのだと。それならばいっそ、総合などやめて、浮いた2時間を国語や算数といった基幹となる教科にまわしたら?と思います。

 

おそらくほとんどの教員は、総合をただただ惰性で続けているのだと思います。当初あった総合的な学習の時間の目的を熟知している教員はどれほどいるのでしょうか?

 

こんなことを書くと、総合大好きティーチャーたちが総合の素晴らしさを延々と語りそうです。しかし、結局その人たちやその主張が、総合が始まって20年近く経ちますが、どこまで浸透してきたのでしょうか? ほとんど浸透していないということは、それだけ多くの人が価値を感じていなかったのだと思います。まさに形骸化。

 

なぜこの時期にこんな記事を書いたのかというと、総合は所見も面倒だし、この時期はポスターやら新聞やらを作らなければいけなくて時間を非常にたくさん食うわけですよ。総合という授業は、総合大好きスーパーティーチャー(しかもたくさん残業や休日出勤をして教材研究をしている人が多いイメージ)ならばいざしらず、私のような凡々教師には無理ですね。 

 

というわけで、やっぱり「総合」はいらないな、と数年間教師をやっても思います。

 

余談ですが、総合を一生懸命にやっている学校の学力が高いのは多分、当然ですね。総合をやる余裕があるわけだから。総合を研究の対象に選ぶんだから、よほど探求心というか、向上心の高い教師集団なのでしょうね。

 

子供の誕生は人生のフルモデルチェンジ

自分にとって、今年の最大のニュースは子供が生まれたこと。これに尽きます。

 

これ自体は喜ばしいことで良いのですが、子供が生まれること(子育てが始まること)は人生の大転換だなと感じています。今年の後半、ブログを書く回数が急激に減ったのは子供が生まれたからです。

 

簡単に言えば、自分の時間が激減するんですね。

 

正直、結婚は人生のマイナーチェンジでした。互いに大人ですので、それなりにうまくやることができたわけですが、赤ちゃんが生まれるのはまるで話が違いました。

 

まず、仕事が終わってから第二の仕事が待っているイメージです。家内(実家暮らしではない)は私の帰りを心待ちにしています。それは私のことが好きだからというわけではなく(?)、子育てをワンオペでするのは本当に大変だからです。

 

私の場合、帰宅をするとまず子供をお風呂に入れます。その間に家内が夕食を作ります。お風呂もかなり大変なのですが、その後、私がミルクを作り、飲ませ、絵本の読み聞かせ・体操を済ませます。ようやく寝かしつけなのですが、これが寝なくて困ります。平均30分間ほどぐずります。抱っこし、歌い、目がとろんとなったと思い、布団に置こうとするとまた泣く…の繰り返し。9時頃寝てくれればよいのですが、その後もちょこちょこ起きて寝てを繰り返します。

 

我々夫妻が夕食にありつけるのはその後というわけで、もう体はへとへとです。教材研究だの読書だの、そういった知的活動は一切できません。寝るだけです。そして朝が来ます。

 

土日だって子供の世話や買い出しなどなどをすればあっという間になくなります。

 

今年後半は子供を中心とした生活で、私の時間は皆無でした。

 

まあ、それが子供を持つということだよと言ってしまえば、以上終了なのですが、私はこのままではまずいなあと感じます。

 

第一に仕事の面からです。

読書でもなんでも良いのですが、多少なりとも未来に向けた投資の時間がないと、これから先が怖いという意味がまずあります。それから疲れが取れず、翌日も気怠い感じで仕事に臨んでいるという点も心配です。

 

第二に人生の充実度という面からです。

子供を持つことは夢でしたし憧れでした。それは良いのですが、今の人生が楽しいか、幸せかと問われると微妙です。何せ追い立てられているようなのですから。ゆとりがない生活は人生から笑顔を消すのだと最近知りました。

 

では、どうするのか?

 

対策は「生産性を上げる」しかないと思います。

 

まずは仕事の生産性を上げることです。できるだけ仕事の生産性を高め、定時で終わるようにするのです。そうすることで、自分の時間を持てる可能性が上がります。

 

次に家事・育児の生産性を上げることです。どうすれば楽に家事ができるのか、育児ができるのかを考えることで、少ない労力で大きな成果を上げたいと思います。例えば、そのために先日、ルンバを買いました。

 

というわけで、来年のこのブログのテーマは「仕事・家事・育児の生産性を高めようと奮闘する小学校教師クラメロン日常」になります。よろしくお願いします。